24 菫草

 山路来て、なにやらゆかし、か。しわがれた声で、その男は、父は、無感動につぶやきます。連絡はおれが死んでからといっておいたのにな。

 わたしはすっかり混乱してしまい、声を出すこともできません。

 そこに椅子がある。ベッドで半身を起こした父が重苦しい声でいいます。狭い部屋だが、まあ、ひとまず座るといい。

 わたしはうながされるまま、困惑したまま、指ししめされたロッキングチェアに無造作に腰をおろします。

 父はゆっくりとため息をつきました。それがなんとなく、とおい記憶を呼び起こします。無感覚な儀式的会食。あさっての方向をむいたまま父はしゃべりはじめます。まあ、ごらんのとおりだ。おれはもうながくない。そろそろ死ぬと思ったんで、いちおう連絡をいれてもらうことにした。たんまりと本があるんで、気にいったやつだけお前にやろうと思ってな。まあ、お前の趣味にはあわないかもしれないが。

 いいおわると二度、かるく咳きこみました。いったんは収まったものの、すこし間をおいてきゅうにまた咳きこみはじめます。咳はいっこうにとまらず烈しさを増し、父は全身をふるわせて苦しげにもがきはじめます。わたしはあわてて駆けつけて、でもなにをすればいいのかわからず、おろおろとその背中にそっとふれます。

 水を、と父はかろうじて声に出します。

 視線のさきには、水差しが用意されていました。

 わたしはコップに水をそそぎ、息も絶え絶えな父にゆっくりと飲ませます。それですこし落ちついて、父はぐったりとベッドに身をしずめます。荒々しい呼吸が徐々に鎮静していきました。わたしはふと、自分の指先がふるえていることに気づきました。

 お前ははやく来すぎたな。すっかり消耗した、やつれた笑みをうかべて父はいいました。もっと〈静か〉になってから来るべきだった。どうせ話すようなこともないし、できることもない。後味のわるい思いなんてする必要はなかったんだ。ぜんぶおわったあとにやってきて、からっぽの部屋だけをながめて、かるく思い出に浸るだけでよかったんだ。まあ、その思い出だってろくにないだろうが。

 わたしはじっと父の瞳を見つめましたが、やっぱり父は、あさっての方向をむいています。

 おれにかまうな、と父はいいました。いまのお前は、充実しているのだろう? いまのお前には、居場所があるのだろう? それはお前が自分の力で手にいれたものだ。おれとはまるで関わりのないものだ。おれのようなクソやろうのことなど、はやく忘れることだ。もうここへはかえってこなくていい。お前はお前の好きなように生きるべきだし、事実もう、そうしている。そのことをおれは、うれしく思っているんだ。

 父は目を閉じて、静かにつぶやきます。きょうのことは、なかったことにするのがいい。

 わたしはなにもこたえませんでした。黙ったまま立ちあがると手近にあった本を一冊とりあげ、そしてロッキングチェアにもどります。本は柳田国男の〈遠野物語〉でした。ページをめくり、静かに読みはじめます。

 日が暮れるぞ。父はきびしく指摘する声でいいました。夜の山はおりられない。

 ひと晩泊まっていきます。ページに焦点をあてたまま、わたしはようやく声を発しました。

 父の、ため息をつく音がきこえました。もぞもぞとまた、ふとんにもぐりこんだようでした。それきり黙ってしまいます。沈黙が支配する山小屋のなかで、わたしは手にした本を読みすすめました。陽は徐々にかたむいていき、周囲は急速にくらくなっていきます。

 明かりはないんだ。寝いってしまったと思っていた父が、ふいにまた声をかけます。電気はとおっていない。ランタンをつかっていたんだが、もう燃料は切れてしまった。いまからならまだギリギリ陽のあるうちにふもとに間にあう。本はくれてやるから、もうかえるんだ。

 ひと晩泊まっていきますと、わたしは先ほどの言葉をもういちどくり返しました。

 父はゆっくりと身を起こします。

 自分勝手なやろうだな。暗がりのせいで表情のよめない父がそうつぶやきます。おれは最期のひとときを孤独に思索にふけりながらすごしたいんだ。お前は邪魔なんだよ。そこにいるだけで気が散らされる。考えに集中できなくなるんだ。これから死のうとしている人間に、お前は気づかいもできないのか。

 自分勝手はお父さんでしょう。カチリと頭のなかで音がしたような気がしました。もうなにもとめられませんでした。わたしは心にうかんだそのままを、しゃべりはじめていました。堰を切ったように言葉はつぎつぎと、あふれていきます。あなたは自分のやりたいことだけをやって、もとめられることにはすこしも応じないで、誰も助けないで、誰もすくわないで、いつも自分のことしか考えてこなかった。わたしに友だちができなくてもなにも思わないし、勉強ができなくて落ちこんでいてもなにも考えなかった。わたしの苦しみにも取りあわないし、苦しみがあったことさえ知らない、知ろうとしない。旅だちの不安も、壁にぶつかった悩みも知らない。そんな人間にどうして気をつかう必要があるの? なにが〈最期のひととき〉だ。それくらい我慢してよ。お父さんはクズなんだから、クズはクズらしく、最期に報いをうけてもしょうがないでしょう?

 いいおわったあとで、わたしは両目から涙があふれていることに気づきました。

 真水のような涙でした。

 父はしばらく無言でしたが、やがて苦笑するような気配がして、ゆっくりとまたふとんにもぐりこみます。ひでえ娘だ。だいぶ時間が経ってから、どこかうれしそうにもきこえる声で父はそうつぶやきました。

 そんなわるい娘には、こちらも遠慮しないでいいたいことをいわせてもらおうか。ひとりごとのようにそっと、父はしゃべりはじめます。お前がこの村をはなれてしまったとき、おれはなんとしてでも連れもどそうと躍起になっていた。純粋に腹がたっていた。勝手なことをしやがってと、そういう気もちをもっていた。まあ、けっきょくどうにもならなかったわけだが。お前はとっくにおれの手に負える存在ではなくなっていた。

 わたしは泣いていることを気どられたくなかったから、だまっていました。

 おれはお前に、この祠を引きついでほしいと思っていた。父は静かにそういいました。いまも思っている。くだらん政治のおもちゃにされるより、この村で自然にふれているほうがずっといいはずだ。むかしお前はそうしていた。いつも森のなかに入りこんで、自然とともにある生き方を生きていた。それがお前の本質だし、その生き方だけがお前を幸せにできるはずだと、おれは思っている。

 わたしがなにもこたえないので、なんだ、寝ちまったのかと父はつぶやきました。

 起きています、とわたしはちいさな声でこたえます。起きています。ふるえるその声で泣いていることがつたわってしまったかは、わかりません。

 すこしだけ間をおいて、父はふたたび口を開きます。森はお前を受けいれていた。お前のことをえらんでいた。〈かれら〉はお前のまえにすがたをあらわして、森での時間のすごし方を共有した。そのことの意味をお前は、まだじゅうぶんには理解していない。

 〈かれら〉? わたしは意図せず、声に出していました。

 この世のあらゆるものには精神がやどる。父はわたしの言葉にはとりあわず、自説をしゃべりはじめます。人間にも、獣にも、虫にも、草木にも、そして生命をもたないものにも精神はやどる。稲妻にも、炎にも、石くれにも、川のせせらぎにも、あるいは人間の作りだした道具にも、ひとしく精神はやどる。そしてその精神のひときわ濃いものを、古代の人間ならば〈カミ〉と呼んだだろう。その呼びかけにこたえられるものは巫者ふしゃとして、特殊な役割をあたえられた。声なきものの声をきき、それを代弁する、重要な役割を。

 父は寝がえりをうち、わたしの目をしっかりと見すえて、いいました。お前はこの祠で、巫者として生きるべきだとおれは思っている。〈かれら〉の声をきくことのできたお前なら、かならずその役割をこなせるし、こなすべきだ。それがおれの、偽らざる本心だ。

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