9 三度め
ふいに遠いむかしを思いだす。
いつのことだかははっきりしない。ずいぶん遠いむかしのことだということだけが、かろうじて理解できる。僕は森のなかにいる。あふれるばかりの緑のただなかにいる。おびただしい種類の緑があたりにちりばめられている。森はざわめく。さわがしいほどたくさんの〈声〉をきく。でもそれは、うるさくはない。
そしてクールな女の子に起こされる。ねばつくねむりから僕は目ざめる。赤黒いおぞましい夢は消えて、僕は、新鮮な緑のただなかにいる。死んじゃったかと思った、と僕はつぶやく。死んじゃったんですよ、じっさい。クールな少女はかすかにほほえんでそう答える。僕の左手を、ぎゅっと握りしめる。
少女は僕に、ちいさな四角いつぶ状のものを食べさせる。そのあとで、濃密な黒い液体を飲ませる。
乾パンとコーヒー、と僕はいう。
ぜんぜんちがいますよ。笑いながら少女は答える。人間の食べものとは、べつのものです。
僕は、ゆっくりとからだを起こす。
すこしだけめまいの感覚がある。
そうかもしれない。僕は苦笑する。僕は、ひとりでは生きていけない。
ひとりきりはいやですか、と少女はたずねる。
ひとりきりはいやだな、と僕は答える。僕はずっといっしょがいい。ずっといっしょにくらしていたい。いつでも、なんどでも。なにがあっても。きみといっしょに。スミレといっしょに。
スミレ。
スミレ?
とうとつにあふれでた涙をすばやくぬぐう。メグに気づかれないように。
スミレ?
その知らない名前がなぜか僕を、僕の胸を、するどいつめで掻きむしる。
僕は顔をあげる。くらい道のさきに光が見えた。トンネルの出口が、せまっていた。
僕は足をすすめる。遠いむかしのことはひとまずわきに置いておき、僕はまえへすすむことだけを考える。答えを知りたい。僕はいま、手づかみできる答えを知りたい。
どろどろに溶けたアスファルト。
ひどくゆがんだ金属製の案内標識。
根こそぎにされたガードレール。
崩落した山塊。
一方向に整然となぎ払われた樹木の死骸。
そのさきに見える、圧倒的な規模のクレーター。クレーター群。
おびただしい数の破壊の痕跡。
僕はひざをつく。カラカラの気もちでそれを見る。釘づけにされた視線はもう動かない。声もでない。息もできない。
想像を絶する光景のもので、僕はようやく理解する。この世界に穿たれた傷口を。この世界にいったい、なにが起こってしまったのかを。
世界は徹底して破壊された。
道はもう、どこにもなかった。
☆ ☆ ☆ ☆
〈
あの日スミレはひどく悲しげな顔でそういった。
世界じゅうに〈穴〉が開き、絶望的な量の灰が空を舞い、太陽をさえぎり、生命は生きるエネルギーをうしなう。
十八年と三ヶ月のうちに、生きとし生けるもの、すべて残らず息たえてしまう。
スミレはそうつぶやいた。
それは予言? わたしはたずねてみる。それとも、予報?
結果です、とスミレはつぶやいた。ローテーブルのうえのマグカップを手にとって、ひと口だけコーヒーをすすった。その琥珀色のまじる黒い液面に視線をさまよわせて、ゆっくりと口を開く。なんどくり返そうと変わることのない、確実な計算結果です。
うんざりするほど計算しなおしてみたの、とわたしはいった。
うんざりするほど計算しなおしてみたんです、とスミレはこたえた。
沈黙はタールのように重かった。
スミレはそれきりなにもいいださなかった。
ぎこちない沈黙が、ふたりの間に横たわる。
ふいにわきおこる感情を、わたしはおさえることができない。
イライラする。
むかしから、スミレのこの表情が大きらいだった。いいたいことがあるのに、それをいいだせない自分自身に対して、自分で勝手に失望しきっている、そんな顔。いえばいいのにとわたしは思う。いいたいことを、いう。ただそれだけのことでスミレは自分に失望しないですむというのに。
理解できない。
わたしはいつもスミレのことを、理解できない。
たとえばわたしが〈双子の姉〉とかだったら、ここでおもいっきり頬を引っぱたいてやるのにな、とか、そんなことをつい考えてしまう。
イライラする。
そんなわたしの心情を察したように、スミレはさみしげにそっと笑う。ごめんね、メグ。気をつかわせてしまって。
そういうところだぞと、わたしは胸のうちでだけちいさくつぶやく。
そういうところだぞ。
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