14 なかまに なりたそうに こちらをみている!
わたしたちのまえに飛びだしたおおきなイノシシは、ふたりの姿をみとめ一瞬間思考をめぐらせたあと、ぶあつい蹄で地面を踏みしめ突きすすむ対象をさだめた。
軌道をかえたイノシシはまっすぐ、美野留にむけて突進した。
わたしはなぜか、銃の照準をかえるまえに美野留の顔をぬすみ見ていた。
恐怖に硬直した美野留の表情が、どういうわけか、おちついたものへと変化をしていく。なにかを受けいれる決意を、その表情にみなぎらせていく。
こいよ。
と、美野留がつぶやくのがきこえた。
その目はしっかりと獰猛なイノシシを見すえていた。
わたしは引き金をひく。発射された弾丸は正確にイノシシの眉間に突きささり、めりこみ、イノシシの意識を分断させて突進の軌道をブレさせた。気絶したもののイノシシはなおもふらつく突進をとめられず、美野留のすぐわきを通りすぎたあと、ブナの樹に正面衝突を果たしてようやく地面に倒れふした。
ふたつの黒い瞳は虚空を見あげて、イノシシは痙攣しながら白い泡を吹いていた。
まえにもイノシシにおそわれたことがあって、とへたりこんだ美野留は気恥ずかしげに笑いながらいう。ズタボロにされて、けっきょく殺されちゃったんだけど、でも即死というわけじゃなくてずいぶん時間がかかったんだ。だからあいつがこっちにきたとき、大丈夫、と思った。僕は殺されるけど時間はかせげる。そのあいだにメグはじゅうぶん逃げる余裕があるなって、そう思った。
戦おうと思ったわけじゃないんだ。わたしはあきれるような、でもどこか感心するような不思議な気分のままこたえた。そしてわたしが反撃するとも思わなかった。
思い浮かばなかった、と美野留はつぶやき、そっと首をふる。そして自嘲気味にちいさく笑う。戦うということが思いつかなかった。思いつけなかった。僕はやっぱり、スミレにふさわしくなれないのかもしれない。すくなくとも、この世界では。
この世界では、とわたしはその言葉をくり返す。
わたしは〈戦いのない世界〉のことを想像する。〈敵のいない世界〉のことを想像する。そんなものが存在しうるのだろうかとわたしは思う。理解のできない敵のことを思いわずらわなくてすむような世界が、美野留が誰とも戦わずにすむような世界が、ほんとうにあるのだろうか。
そんなまやかしのような世界は、ありえるのだろうか。
どうしてスミレが好きなの。わたしはかわいた声でそうたずねる。
美野留はすこしだけ目を見ひらき、わたしを見つめ、そしてあいまいにちいさく笑う。なんでだろうね、と煮えきらない態度でつぶやく。それでもじっと考えこんだあとで、美野留はひとつひとつ、言葉をつむいでいく。もしかしたらそれは、スミレが戦っているからかもしれない。スミレの戦っているすがたに惹かれているのかもしれない。それは誰かに対してというのじゃなく、スミレ自身に対して、あるいは、世界に対して戦っているすがたについて。スミレはエネルギーがあって、いつもなにかを変えようとしている。動かそうとしている。僕は研究室で手伝いをはじめて、スミレのそんな様子にふれて、そのエネルギーに圧倒された。そのエネルギーを、すごいと思った。
だから僕はスミレが好きなんだと、美野留はいった。
わたしはちいさくうなずいたけれど、それがなにに対するうなずきなのか、自分でもわかっていなかった。
たしかに、わたしにエネルギーはないのかもしれない、とわたしは思った。なにかを変えようとしたり動かそうとしたりするエネルギーは、わたしには、ないのかもしれない。
わたしは〈うそつき〉だから。
でも。
わたしなら美野留をまもれるよ。わたしは目もあわさずにちいさくつぶやく。わたしなら、美野留をまもることに自分のすべてのエネルギーをささげられる。わたしは美野留を修理することはできないけれど、修理が必要になるような、すべての危険から美野留をまもることができる。そのためだけにエネルギーをつかうことができる。美野留は強くなる必要はない。敵と戦う必要もない。わたしがやる。わたしが銃を撃って、けちらして、邪魔になるようなやつはひとり残らずわたしの手で倒してみせる。
そういう世界はどうだろう、とわたしはといかける。
わたしは美野留へ視線をむける。わたしが見つめた美野留は、でもわたしのほうをむいてはいなくて、わたしの話をきいていたのかもあやしくて、おびえの色をにじませながらも身がまえるような強い視線をどこかべつの方角へとむけていた。
わたしはすばやくその視線を追う。
気絶していたイノシシが、ゆっくりと起きあがるところだった。
からだを起こした野生のイノシシは、わたしのすがたをみとめると小走りに近よって、うれしそうに鼻先をこすりつけてきた。
〈これ〉の効果。奇妙になついた様子のイノシシのすがたに、すっかり困惑しきった表情をうかべる美野留へむけて、わたしは手にしたままの拳銃を掲げてみせる。
それって、まさか。美野留はその正体に気づいたらしく、上ずった声でそうつぶやく。
そう。拳銃をくるりとまわしてポケットに突っこんでから、わたしはつぶやく。スミレから借りてきたんだ。
スミレの偉大な理論が生みだした、〈トキメキ☆ハンドガン〉。持ち主の〈精神波形〉を読みとって、撃ちぬいた相手の感情を強制的に変えさせる恐るべき必殺兵器。百年の恋におちいったものもこの銃弾を受ければ一瞬で冷めるし、逆のむきで弾倉をしこめば、どんな相手であっても一瞬のうちにチョコレートよりもあまい恋に落とすことができる。
でも、イノシシにも利くなんて。くるくるとわたしの周囲を走りまわるぶーちゃん(いま名づけた)のすがたを信じられない面もちでながめながら、美野留はいった。そりゃそうよ。ぶーちゃんのよこ面をわしわしとなでながらわたしはこたえた。精神波形をもつものなら、誰であろうとのがれることはできないんだよ。
僕にむけていたのは、ほんものの拳銃ではなかったんだね。どこか安堵したように美野留はつぶやく。ほんとうに僕を殺そうとしたわけじゃないんだ。
そりゃそうさ。わたしは立ちあがるとひざの砂をはらい、ぶーちゃんの頭をかるくこづいてから、すっと差しこむような視線を美野留へむけてはっきりと通る声でいう。〈好きな相手〉を本気で殺そうとするやつがどこにいるっての。
え。
二の句がつげないでいる美野留へむけて、わたしは間をあけずおなじ言葉をもういちどいう。〈好きな相手〉を本気で殺そうとするやつが、どこにいる。
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