27 機械兵士の不完全性
〈【プリンキピア・マテマティカ】あるいはその関連体系において形式的に決定不可能な精神波形について〉という題の論文を、わたしは天馬坂学園数理科学研究科に提出します。
その論文ではじめてわたしは〈精神波形〉の概念を提唱しました。
原子やエネルギーのレベルにまで想定された〈精神波形〉。その存在可否がいかに〈決定できない〉かを、わたしはその論文で論証します。既存の論理体系ではその存在を肯定もできないし否定もできない。それは技術的な障壁のためでなく、既存の論理体系そのものの限界によって、決定を不可能なものとしている。そういう趣旨の論文です。
そしてわたしは論文末尾にほのめかします。ある種の機械兵士は、既知の論理体系をふっとばすことによりその〈精神波形〉の概念を行動原理に組みこむ能力を確立している可能性がある、と。
そしてもちろん、それこそがわたしの本題でした。
美野留は奇妙な機械兵士でした。
修理自体はそれほどむずかしいことではなかったです。部品のいちぶを調達するのに若干苦労はしましたが、二週間ほどですべてそろいました。パーツを入れかえることはもちろん、破損した部分を修復することにもとくに困難を感じません。わたしにとってそれは、すこし複雑なプラモデルを組み立てるようなものでした。
意識を取りもどした美野留は、部分的な記憶障害が確認できました。過去の出来ごとの細部を思いだせなくなっているほか、記憶の混同や書きかえも見られました。もっともそれは、深刻なレベルというわけでもなかったですけど。
〈もう戦争はしたくない〉と美野留はいいました。
わたしは、正直それをきいて笑ってしまいそうになりました。戦うことを宿命づけられた機械兵士が、みずからのその存在意義を否定しようとしている。ほんとうなんだとわたしは実感しました。美野留が戦場で戦闘を放棄して泣いていたというのは、きっとほんとうのことなんだ。
わたしは美野留を研究するため、研究室でいっしょにくらすことにしました。
そしてだんだんと気づいていったのです。
美野留はたしかに、なにかが違う。
話をしていると、美野留だけなにか、すこし違う次元に生きているような錯覚を感じます。
現実の理解の仕方、見方、対処の仕方が、どこかすこしずつおかしいんです。
わたしにはきこえない〈声〉をきいて、それについて考え、それにしたがって行動している。そんな雰囲気があるんです。
だから美野留はときどき自分を見うしないます。なにかべつのものに〈接続〉して、自分という存在をまるで忘れてしまうことがあります。それで容赦なく壁に頭を打ちつけたり、橋から落ちて川に沈みこんだりして、再起動することもしょっちゅうです。そして目ざめると美野留は、またすこしだけ記憶を混濁させているんです。〈鋼化イノシシ〉におそわれちゃったんだよ、なんて、意味のわからないことをしゃべりだすこともありました。〈トキメキハンドガン〉なんて、わたしの知らない発明品の話をすることもありました。
美野留はたぶん、とてもたくさんのものに〈接続〉していたんだと思います。
たくさんの物語が美野留に、入りこんでいたんだと思います。
そして美野留は、わたしにも〈つながって〉いました。
美野留はよくわたしのことを見ています。目があうと、うれしそうに笑いかけます。わたしがコーヒーを飲みたいと思ったときには、すでにコーヒーは出来あがっています。こんど食べたいと思ったものは、すでに夕食のメニューにはいっています。美野留はいつでもわたしの考えを先まわりしています。研究が行きづまったときには気軽な雑談で気もちをほぐしてくれて、疲れを感じたときにはぐっすり寝られる方法をあれこれ教えてくれて、無性にイライラしてしまうときにはじっくりとその理由をきいてくれて。ふと、父のことを思いだしてしまったときには、なにもいわずそっと背後から抱きしめてくれて。
わたしはあることに気づきます。わたしは相手の心を読むことが苦手です。そしておなじように、過去にわたしにかかわった誰も、わたしの心を読んではくれなかったのでした。
わたしの心は誰にも配慮されずにきたんだと、ふいに気づきます。
わたしの心は、誰も読もうとはしなかった。誰ひとり。
美野留はいつも笑っています。わたしがほしいと思う笑顔を、いつもわたしにむけてくれます。わたしがほしいと思う言葉を、いつもわたしにかけてくれます。そのときどきに、最も適切な方法で。
おびただしい計算の結果として?
そうかもしれません。
でも、わたしはそこに〈プログラムくささ〉を感じません。
わたしは美野留に魂を、精神を、感じとっています。
そう思いたいからにすぎないのかもしれません。そう信じたいからにすぎないのかもしれません。わたしの心にあたたかいものをあたえてくれる美野留という存在を、精神という名で飾りたいだけなのかもしれません。
それならべつにそれでもいいんです。
わたしは美野留に〈仲間意識〉を感じています。〈とくべつな愛着〉を感じています。そのことこそが重要です。たとえその事実が決定不可能であったとしても、わたしはそれを、疑いません。
わたしは自分がときどき、笑っていることに気づきます。
心からくつろいでいるひとときを感じます。
美野留といっしょにすごしていると、わたしは楽しい。
その事実だけが、需要なのでした。
ある日外出先から研究室へもどると、地階からぼそぼそと話し声がきこえてきました。美野留の声でした。でも、地下の部屋はものおきにつかっているような雑然とした場所で、誰かをまねくようなところではありません。
いぶかしんだわたしは足音をしのばせて様子をうかがいます。
掃除道具を片手に美野留が、なにかにむけて声をかけています。
わたしは息を呑みます。美野留は片隅に置かれたマーガレットに話しかけているようでした。とくに親しげというほどではなかったのですが、気軽な会話を交わしているようにきこえます。
マーガレットは、目を閉じています。ひと言もしゃべりません。そうです。マーガレットはあれいらいシャットダウンさせたまま、電力を供給していませんでしたから。マーガレットはいま、完全な休止状態にあるはずでした。通常の会話は、できる状態にはありません。
美野留は〈精神波形〉を通した交信をしている? わたしはそう思いつきました。美野留はいま、〈未知の特殊な意志伝達手段〉をおこなっている?
研究者としての、その疑問が湧きおこるのは当然ではありました。でも、ほんとうはそれ以上に、もうひとつの感情がわたしの心に芽ばえてくるのを、わたしはもう、みとめざるをえませんでした。
どうしてマーガレットと親しくなろうとしているの? という、はじめて経験するくらい嫉妬心。
〈仲間意識〉どころじゃありません。
いまごろになってようやく、自分の抱いた恋心を、わたしははっきりと自覚したんです。
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