天才少女、MAD、降灰世界──〈ポストアポカリプスは時間遡行の夢を見るか?〉

あかいかわ

1 しんでしまうとは なさけない

 〈あの日殺されたとき〉のことは、だんだんはっきり思いだせなくなっていた。

 まえはもっと鮮明に、詳細に、記憶のあなぐらから引っぱりだせたはずなのに。暗闇のなかに手を突っこんでみても、ふれるものはもうすくない。

 いくつかの映像と音だけが、あまり色あせずに保存されている。

 焚き火の赤色をかき消す強い閃光。

 吹っとんだときに見た青い夜空。

 とおい雷鳴めいた音のあとにつづく、ガスのもれるようなどこか間のぬけた音(いま思えばあれは降下する迫撃砲弾が立てた音だった)。

 そして爆音。大轟音。

 手足のちぎれた戦友と、際限なくつづく、〈めてもうやめてもうやめてもうや〉という気の滅入るようなうめき声。

 死ぬのかな、と僕は思った。これでおわってしまうのかな、という考えがあたまをよぎった。そのうちにくらくらするような赤黒い闇がやってきて、世界は豆つぶみたいにちいさくなった。

 目ざめるときれいな女のひとが目のまえにいて、静かな表情でじっと僕を見つめていた。

 クールな天使さまだ、と僕は思った。

 天使さまはなにもいわず僕にひとつぶ乾パンをくれた。ひどく喉がかわいていたけれど、口にふくんだ乾パンの味はひかえめにいって人生で最高の味がした。差しだされたコーヒーをひと口ふくんだあと、僕はもうひとつぶだけ乾パンをもらった。おいしかった。ボリボリと音を立てて噛みくだきながら、あれ、そういえば僕は生きているな、と僕は気づいた。ここは天国ではないらしい。

 ここは天国ではないし(〈天馬坂学園高等部科学研究科科学研究室第三号〉といった)きれいな女のひとは天使さまではなかった(スミレという名のクールな〈天才少女〉だった)。僕はいちど死んだけれど、スミレに助けられたのだ。

 ほかの仲間は全滅だった。

 公的にはきみは死んだことになっています。スミレは僕に教えてくれた。きみは自由です、なにかしたいことはありますか?

 もう戦争はしたくないと、僕はこたえた。

 それでは隠れつづけるしかないですね。天才少女はクールにいった。そしてすこしだけ間をおいたあと、スミレはクールに提案した。ここでくらすというのはどうですか?


 僕はスミレの研究室でくらすことになった。

 もちろんくる日もくる日もただあたえられた乾パンを食べつづけるだけという懶惰らんだな生活をおくるわけにはいかない。僕はスミレの助手として、パートナーとして、ささやかながらここではたらきはじめることにした。実験のこまごました手つだいをしたり、ついついとどこおりがちな家事を任されたり。日々なにかといそがしいスミレを、僕はサポートすることになった。

 そんな時間をすごすなかで、僕はすこしずつ忘れていった。殺された日のことも、それよりまえの日々のことも。

 でも、そのことはあまり気にならなかった。ていねいに部屋の掃除をすることは、戦場で銃の手いれをすることよりも楽しかった。ずっと夢中になれた。そして部屋も喜んでくれた。〈ありがとう〉。戦場ではそんな言葉をかけてもらったことはいちどもない。〈ありがとう〉。感謝の言葉をきくというのは、とても気もちのいいものだと僕は知った。

 ねえ、ねえってば。

 え?

 ふいに呼びかけられていることに気づいて、僕は振りかえる。

 すこしだけ困った顔をして、スミレが僕を見ていた。もう、さっきからずっと呼んでいたんですけどね。ちょっとだけ咎めるような口調でスミレはいった。すっかり夢中ですね、わたしの声、ぜんぜんきこえなかったみたいですね。

 そう。ときに夢中になりすぎることがあるという欠点を、僕ははじめて自覚した。

 なにかに集中しすぎると、ほかのいっさいが耳にはいらなくなってしまう。意識がむかなくなって、注意がひどく足りなくなってしまう。深刻なほどに、病的なほどに。そしてそのことがときどきおおきな失敗を呼びよせてしまう。

 たとえばある日、僕は夕食の食材にときのこがりへ出かけた。森のなかを歩くのはとても楽しかった。いろんな生命の息づかいを感じることは心地よかった。森の〈声〉は澄んでいて、それをきくだけで心が洗われるようだった。僕は、ついその声だけに意識をかたむけてしまう。

 そしてふいうちのようにあるしゅんかん、僕のすぐちかくに赤い光がいくつも点在していることに、とうとつに気づく。

 鋼化イノシシの赤い瞳だと理解したときはもう、僕はかれらの突進をまともにうけて背後の樹に叩きつけられ、牙でざくざくと刺しつらぬかれ、からだじゅうを硬い蹄で踏みにじられていた。

 抵抗する間もなく視界はくらくなって、動けなくなって、自分の腹部に獰猛な鼻先を突っこまれる不快な感触だけが闇のなかであとを引いた。そしてそのうちに、その感触さえも、溶けていった。


 目ざめるとベッドに横たわっていて、クールな天使さまが僕をじっと見つめていた。僕の左手を、しっかりと握りしめていた。

 死んじゃったかと思った、と僕はいった。

 死んじゃったんですよ、じっさい。天才少女の天使さまはクールにそうつぶやいた。

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