5 山路来て、なにもゆかしくない
しかたなしにさきほどの民家へもどることにした。
時刻はおそらく正午ごろ。ソファーに腰をおろし、リュックのなかから乾パンの袋を取りだした。
食べながらふたたび地図をひろげた。トンネルを使わない山ごえルートをさがしてみると、ほかのみちがないではなかった。現在地をすこしもどった場所から枝わかれをした旧道らしい峠道がのびている。ひどくうねりながら山頂に達し、ひどくうねりながら向こう側のふもとへとおりていた。
え、
うん、さすがに道が急坂すぎる、と僕はこたえた。それに、途中にあるこの橋が崩れていないともかぎらない。あと、僕はミノムシじゃない。
ほかのルートがないか探してみたが、縮尺のおおきいこの地図では詳細はわからなかった。腕をくんで考えこんでみたものの、いい案は思いつかなかった。
およ。とつぜんメグが声をあげた。〈降灰〉だ。
ガラス窓へと目をむける。背景の灰色よりもやや明るい雪片のような灰がそのむこうにひらひらと舞っていた。おぼつかない重力にしたがって、ときどき上昇をしながらも灰は全体的にはゆっくりと下降していた。数はまだすくなかったが、強くなりそうな気配があった。
しばらくはでられないね、とメグはいった。そしてふかふかのソファーにたおれこんで、その寝ごこちを心ゆくまでひとり楽しんだ。
灰はやんだがつづいて雨が降りだした。
することもなかったので、部屋の掃除をして時間をすごした。〈ありがとう〉
きょうはもうダメだなあ。ながくつづく雨音をききながらくらい部屋のなかでメグはいった。
そうだね、と僕も同意した。きょうはもう出ないほうがいい。
ねえ、わたしたちはどのくらいまできたんだろう?
だいたい、三分の一くらいかな。
あとどれくらいかかる?
三週間くらいと思う。なにごともなければ。
なにごとかは、あるだろうな。
こわいこといわないでよ。
あれ、もしかしてこわくて泣いているのかい?
べつに泣いてはいないよ。
泣いたっていいんだよ、ナキムシくん。
だから泣いてないって。
ねえ。ナキムシくんは、昔のことをちゃんと覚えてる?
まあ、それなりに。でもだんだんはっきり思いだせなくなっているんだ。
昔はよかった?
昔はよかったよ。
ねえ
うん?
この世界にもう、わたしたちふたりだけというのはどうだろう?
雨は夜ふけのうちにやんでいたが明けがたごろまで雷鳴はながくつづいた。獰猛なネコ科の咆哮のようなくぐもった音だった。
雷鳴の最後にいちどだけ、烈しい落雷があった。
トタン板を無理やり引きさくような音がした。
静かな朝がやってきた。
そとへ出ると地面は多少ぬかるんでいた。ぬかるみにうっかり足をすべらすたび、メグは容赦なく嘲笑した。気をつけなよ、ころんであたまを打ったって誰も助けてくれないんだよ?
わかってるよ。僕はちょっとだけムッとしてそう答える。わかってる。ころんだって誰も助けてはくれない。
風景の灰色はぬれたことですこしだけ重さを増していた。空気はきのうよりも澄んでいたけれど空はあいかわらず荒涼としてうごめいていた。
太陽のありかはきょうもわからなかった。
歩いていると、トンネルのちかくに鳥居を見つけた。
斜面中腹の枯死した木々を背景に、象牙のように白くあせた鳥居がひっそりと建っていた。それをつらぬいて、ちいさく不ぞろいな石段がそのさきまでながくつづいていた。足をすべらせないようじゅうぶんに気をつけながら、僕はそれをのぼった。
石段をのぼりきるとあいまいな山みちがはじまった。道はまださきまでありそうだった。
すこし迷ったものの、ほかにあてもないので道なりにすすんでみることにする。山みちはそれなりに斜度があった。すすむにしたがい次第に標高があがり、それにあわせて灰におおわれたふもとの様子が、徐々に遠くまで見わたせるようになる。いちめんの、灰色。
そしてそのさきにちいさな祠を見つける。
それはあまりにさりげなく、鉛直にのびる骨のような樹木にかこまれてひっそりとたたずんでいた。木板でくみあわせられた、ちいさな家のような素朴なオブジェ。そのわきには一見それとは見わけづらい、さびた鉄製のさいせん箱も置かれている。そしてそのどちらもが、たっぷりの灰にまみれている。
ただそれだけの、ちいさな祠。
なにかがいたのかもしれない。
いまはなにも感じない。
感じないままに僕はいぜん拾った十円銅貨を取りだして、さいせん箱へ投げいれる。指をくみあわせて、いのりをささげる。
この場所になにがいたのか、すこしもわからないままに。
あたりは静まりかえっていた。
僕の願いは、ただひとつ。
いのりをおえると、空からまた灰が降りはじめていることに気がついた。
どうしようかとまごついているうちに、道のさきにちいさな山小屋のようなものが目にはいった。
僕は足早にそこを目ざした。
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