第24話 新宮八千代

「ここは軌道都市。地球を回る人工衛星、その中の仮想世界、電子が映しだす時空間。私はこの軌道都市の連鎖自治体の首長を勤めています、新宮八千代しんぐう やちよ


 女性は深々とお辞儀をすると鹿威しのように頭を上げた。軌道都市、電子の時空間という言葉に理解が及ばず俺と瑞穂は互いに目を合わせて八千代へと首を回す。歳は20代後半から30代前半だろうか。淑やかさに溢れる立ち居振る舞いは、下町はおろか日立アキラも凌ぐ高貴な身分に思える。


「あなた方にはとても理解できるものではありませんね。まずは私たちと同じ視線に立ってもらいましょう。大丈夫、MMCがあなたたちと我々の差を埋めてくれます。私たちの技術の先端を——」


 瞬間、脳内を知識の群像が駆け抜ける。ニュートンが提唱した万有引力をアインシュタインの相対性理論が補完し、歪む時空間を垣間見る。そしてより小さな物質たちの法則から巨視の位置へと立ち上り、めくるめく量子の世界が見え始める。それは世界という絶え間ないゆらぎであり、微視的な事象の絶え間ない湧出だった。この世界、物質を紐解いたときに見える粒性。電子と光子が相互作用する確率の雲。その不確定性がスピンフォームの連なりとなって伸びる。俺は短時間で目前に広がる時空間をそのように理解した。

 いつの間にか手のひらで顔を覆っていて、伝う汗が目に入るのを防ぐ。MMCマイクロ・マシン・サイバネティクスが見せた明晰な物理世界は俺たちに全く新しい境地を教えてくれた。


「驚いた。あんたは俺たちとは比にならない進歩した科学の中で生きているんだな。悪夢で俺に語り掛けていたのはあんか?」


「そうです。だけど限界はあります。MMCをもつ人の全てに声をかけてきましたが、まともに通信できたのは翠だけでした」


 まさか人々はMMCなんて存在を知らないだろうし、それを通信だと理解できる者は更に限られただろうから無理もない。

 俺はその人智を越えた力に敬意を込めて問いただした。


「あなたが神か」


「——歩きながら話しましょう」


 八千代は深く濃い茶髪を翻した。





「この仮想は共感覚幻想。実態のない、世界と個人のパターンをデジタルに処理して保存された場所。だから私たちに肉体という概念は存在しない。精神体、幽霊だと解釈してもらってもいい。今のあなた達なら、私の言葉が理解できるでしょう」


「あぁ・・・」


 MMCが見せた物理学の発展と経緯が、八千代の言葉の意味を教えてくれる。まるで脳が一瞬でアップデートされたかのよう。八千代と同じように、今の俺たちもデジタルに処理された岸部航、葦原瑞穂のパターンだと本能のように理解できた。足元の草花も、舞い散る桜の花びらも、肩口をそよぐ風も、全てが共感覚幻想のデジタル処理された仮想。


「つまり私たちは、あなたたち地上の人々の言うところの神ではない。れっきとした人間」


 その言葉を素直に受け止めるには、俺の認知は限界があった。サイバネティクス生命体と化した瑞穂でさえまだ完全には受け入れられないのだ。実体のない電子の幽霊を同じ人間だと認識するには俺の世界は狭すぎる。


「とても信じられない。肉体を持たないあんたが人間だなんて。そもそも俺たちの体は——」


「あなた方の肉体は地上にあります。パターンのみがこの宇宙を漂う共感覚幻想に描写されている。昔、そんな映画があったのをご存じかしら」


「映画なんてとうに滅んでいる」


 映画の話を切り出す八千代の問いを俺は鼻息で吹き飛ばす。現代の人々に、映画という文化的極地を編み出そうなんて余裕はない。家畜の肉を食い、死ぬまで酩酊することが俺たちの人生の全てなのだ。俺たちの認識はせいぜいその程度に限られている。


「この世界は何なの。軌道都市とは、共感覚幻想とは何なの」


 食い気味に、瑞穂は話を急かした。この瞬間も、戦場では命の削り合いが起きている。俺たちに猶予なんてものはない。

 八千代は歩みを止めることなく、真っすぐに伸びる太陽の光へと手を伸ばした。右手のひらを雄大な青い空へと向けると、親指と人差し指の間を覗く。


「焦らないで。まずはこの世界の歴史を知ってください」


 指が空をなぞる。すると空は大移動を始めた。雲は素早く流れ、太陽は地平線の裏側を目指し出す。まるで時間が高速に進んだかのように、辺りは夜の闇へと沈んだ。星一つない空は波を失った海面のようで、あれがめくるめく電子的格子の論理だなんて嘘のよう。

 八千代は机上のパンくずを払い落とすかのように空を手で薙いだ。空に映像が映る。それは地上から何本も立ち上る弾道ミサイルの数々で、美しい平行を描きながら空を目指している。街に火の手があがり、航空機の機関砲が建造物を蜂の巣にする。ビルは崩れ落ちるジェンガのようにガラガラと倒れ、アスファルトを破壊しながら前進を続ける戦車の火砲が兵士が身を隠す陣地を吹き飛ばし、戦車の後方の歩兵が追い討ちをかけるために駆け抜ける。


「ご存じの通り、大戦禍グレート・ウォーは世界に破壊の限りを尽くしました。もう来ないと言われていた戦争は呆気なくその火蓋を切った。重要施設にあたる原発はすぐさま破壊された。放射能で汚染された地球で生きることは不可能。我々は汚染された地球から逃れるべく、共感覚幻想への避難を決行しました。しかし放射線物質は電子機器にすら悪影響を及ぼしてしまう。だから共感覚幻想を内蔵した人工衛星を汚染が届かない宇宙へと打ち上げなくてはならなかった。それがこの軌道都市」


 空のスクリーンには今俺たちがいる軌道都市の画像が映し出されていた。白く規則的な造形が宇宙空間に漂う。


「しかし軌道都市に住むことができる人には限りがありました。いくらデジタルが無限の可能性を秘めていたとしても、それを可能にするのはメモリという有限のリソース内でのみに限られている。更には地球に残る人も少なくはありませんでした。肉体を捨て、精神体のみで生きるという感覚はなかなかに恐ろしいものですから。軌道都市に移り住んだ我々はいつか地球に還れると信じて耐え忍んだ。人の一生など優に越える持久戦です。当然、人々の精神はすり減り始めました」


 八千代は振り向くと握れと言わんばかりに両手を差し出した。俺と瑞穂は片手ずつ八千代の手を握った。


跳躍ジャンプします」


 瞬間、先ほどの雄大な平原とは変わって巨大な都市の只中へと移動する。言葉通りの瞬間移動だ。


「当初、共感覚幻想には先ほどの草原と桜の木以外は何もありませんでした。そもそも自然環境が人々の生活を脅かすなんてことはこの空間では起きません。極端に言えば家屋といったものが必要なかった。しかし人々は線引きを求めました。家、会社、街。地球と同じ生活を求め、私たちは他者と一線を引かずにはいられなかった。彼らの要望通り、私たちはこの仮想空間に新たな文明を築き始めた。しかし、それでもなお人々は疲弊していきました」


「なぜ」


「ここは資本主義的な競争から解放された空間で、更には食料や物資の心配をする必要がありません。もちろん、"食べる"という感覚を味わうことはできますが。地球環境が改善されるまでの膨大な時間は、私たちに言いしれない恐怖をもたらしたのです。永遠に生き続けるという恐怖を——結果、自らを消去する人々が現れ始めたのです」


 跳躍ジャンプ


 辿り着いた先は歓楽街、ネオンが輝く猥雑の街。極彩色の蛍光看板が縦横無尽に飛び交う。街を歩く人々は、アナーキズムに富んだ破壊的な装飾品で着飾っていた。目前を横切る男の髪は毒々しい緑色で、サイドは刈り込まれてオールバックの頭頂部。ラバースーツに身を包む女性が電柱に体を預けて煙草の煙を揺らしていた。見せつけるかのようなボディラインの表面をネオンの光が反射する。中華の露店から昇る蒸し器の蒸気、その先には錆びた梯子が張り付いたコンクリート壁のアパート。足元に転がる蒸留酒の瓶をつま先で転がすと、残ったままの中身が波打つ看板の文字を映す。


「ここは悪徳地区ローカルバビロン。快楽の街。ここも当初は存在しませんでした。共感覚幻想での無限の穏やかさに疲弊した人々のために立ち上がった街。ここは膨大な時間を快楽で乗り越えようと足掻く人々の姿がよく見られます」


 八千代がとあるクラブの前で立ち止まると、分厚い防音扉を開いて俺たちを手招きする。扉をくぐると爆音の波動が体中を叩いた。狭い空間で人がひしめき合い、進もうとする程に体が接触する。気にすることなく進み続ける八千代を見逃すまいと目で追っていると、急に腕を引っ張られる感覚。手首を握る指は細長く、蛍光色を発する伸びた爪。手の主を求めて伸びる腕の先へと視線を移すと、暗がりにショートカットの女性の顔が見えた。紫色の口紅と、薄紫の髪が音と共に明滅する光に照らされる。


「初めて?いいものがあるわ」


 女性は握り込んだ手から親指と小指をピッと立てて口元で吸う素振りを見せた。


「いらない」


 拒否すると女は”いつでも声をかけてね”と言い残して人込みへと消えた。

 隣を見ると、瑞穂は振動するスピーカーの前で棒立ち、目はスピーカーの中央に一点集中している。瑞穂の肩を叩いて奥へと促すと、八千代は既に横広なソファに座り込んでいた。俺と瑞穂も横並びに座る。目の前には丸く光るダンスフロアがあり、所せましと男女が踊り狂っている。必死に全てを忘れようとして、髪先から汗のしずくが放たれる。

 八千代が指でパチンと音をたてると、周囲の音量が下がった。音楽だけでなく客の声や足音の雑音といったものまでもだ。だが、周りの人はそんなことはないとばかり踊り続けていて、静かになったと感じているのは俺たちだけだった。


「軌道都市の人々は、この共感覚幻想に横たわる夢を見ながらなんとか生き長らえています。が、それももう限界。自殺者は年々増加していて、生殖できない私たちの人口は減る一方。このままだと、地球に還る日を待たずに絶滅するかもしれない」


 跳躍ジャンプ


 今度は荒涼とした大地。瓦礫となって崩れ落ちたコンクリート片が横たわっている。すると瓦礫の影から、半透明の人が起き上がる。ボロボロの布切れと化した服を手繰り寄せて、埃塗れの髪から土煙が舞う。


「だけど嬉しい誤算が起きました。地上に残った人類が絶滅しなかったこと。一定の文明が残り、人々が略奪し合わず秩序が形成されたこと。軌道都市へと逃れた人の存在は忘れ去られてしまったけど、伝承のように神と呼ばれて受け継がれている。私たちは地上に残した軌道都市の工作員とコンタクトを図った。その末裔が連城翠。彼女と初めてMMC通信が通じたときの困惑ったら今でも思い出せるわ。先祖代々から語り継がれる軌道都市の住人なんていうおとぎ話が真実だっていうのですから。当面の問題は、肉体を失った我々が地上でどう生きていくかだった。翠は富士芳明にMMCが流れる自身の血液を提供した。MMCによる拡張現実は、地上の人でも私たちを認識できるから。彼の協力を経て大衆用のMMCの開発は成功。しかし、人類は枢軸教会アクシズと機械派ユニオンへと分岐、事態はより混沌へと推移してしまった。今、軌道都市の我々が割り込めば混乱は更に激化してしまう。世界はあまりにも複雑になってしまい、もはや私たちが大事に育て上げた社会的観念では現状を打破することができない」


 八千代はくるりと一回転する。つむじ風が巻き起こり草が巻き上げられ、風の中心では影が立ち上がった。影は段々と濃くなりやがて人の形になり、黒い衣の男、甲賀麟太郎へと変化した。


「私たちだけでは問題解決が不可能だと判断し、生前で私の専属警護だった甲賀麟太郎をQED量子電磁場に干渉して現代へと呼び出した」


「生前だと。ちょっと待ってくれ。なら甲賀麟太郎は死んでいるのか。MMCのおかげであんたたちがどれほどの強大な科学技術を有しているかは理解した。だがそれでなぜ死者を呼び出せるんだ。時間を超越して、しかも死人を呼び出せるなんてまさに神の所業だ」


 甲賀麟太郎自身が一歩前へと踏み出す。


「空間とは相互に作用する場の量子の連続体だ。計算を続ければ空間のを記述することができる。そして時間とは空間の湧出とともに現れる。つまり空間とは時間なんだ。この場合、空間は量子の不確定性による現象として現れる。今この瞬間にも、この空間のすぐ隣には俺が存在した時空間、しなかった自空間がある。時間が相対的である以上、今この時空間とありえたかもしれない俺の時空間の流れは同じではない。そこにQEDで空間の歴史を記述できれば、ありえたかもしれない空間を再現することも可能になる。つまり俺は、ありえたかもしれない俺として今ここにいる。地上でお前を支援できたのもQEDのおかげなんだぜ」


 俺と瑞穂は互いに見合うと、凡そ理解不能だと視線を交わす。


「何のために甲賀麟太郎は召喚されたの」


「麟太郎の脳を現代人へと移植するため。移植先は航、あなたの頭よ」

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