第25話 岸部航

「翠は麟太郎から脳の半分を摘出し、航へと移植した。理由はタイミングよく脳に重大な損傷を負った患者がいた・・・航、つまりはあなた。だけど今の航とQEDで召喚された麟太郎の時間の速度は違うから、その時間差を揃えるために冷血コールド・ブラッドを投与した。あなたの頭にはオリジナルの脳と麟太郎の脳が共存し、それぞれの意識を持ちながらも徐々に統合され始めている」 


「何のためにそんなことを——」


「世界はあまりにも複雑。世界は枢軸教会アクシズと機械派カルテル、更には軌道都市と複雑に分たれて、今や私たちの見地だけではどうすることもできない。この先の未来の創造は過去と今の両属性を兼ねた人間だけ。世界の舵は、一人の超人による思考だけでは到底辿り着くことのできない思想の突破の先にしかないの。勿論、それも確実ではない。それは確率の雲を掴み取ろうとする行為にも等しい。だから私たちは航と麟太郎の脳を隣り合わせにして相互作用させた。あなたも気づいての通り、二つの視点による相互作用はめざましい思考の変革をもたらした。その変数スペクトルの先にこそ世界が目指すべき道があると信じて」


「無茶を言うな。俺にそんな未来なんて見えやしない」


「いいえ、あなたはまだ世界がとるべき舵を考えたことがないだけ。ニュートンと相対性理論は原則的に計算で未来の記述、つまりは物質の移動過程を予測することができるようになった。だけどそれは100メートルを時速10キロメートルで走ると何秒で辿り着くかとか、そうした条件下の微視的な範囲まで。世界という巨大で複雑に絡み合う現状を丸ごと移動させるにはより巨視的な視点が必要。私たちが辿るべき道へと通ずる偏移振幅の計算が弾き出す、いまだかつてない思想への確率に唯一絶対なものなどなく、あくまで確率であり不確定ではあるけど、実現する見込みのある予測として答えに最も近い存在はかつてと今を生きる人間同士の相互作用。つまりは二つの脳で思考ができる航、あなた自身」


 八千代と麟太郎、瑞穂までもが俺を見た。


「無茶だ。今すぐ答えなど出せるわけがない」


 俺の焦りなどいざ知らず、八千代が首を横に振る。


「残念だけど時間がないの。軌道都市の連鎖自治体の有識者たちはたとえ抗争になろうとも地上に降りようと画策しているわ。教会の生命工学術と、機械派のサイバネティクスの技術を利用できればそれも不可能ではない。もちろん、荒事は避けられない」


「幽霊のあんたたちがどうやって地上を攻撃するっていうんだ」


「この軌道都市という名前は後からついたもの。本当の名前は”突撃都市”。地上から侵略行為があったときのために、最大量の武装が施された正真正銘の軌道要塞。もちろん、そんな武力を同胞へ向けたくなんてない。そうならないために、あなたにこれだけの舞台をお膳立てしたの。勝手なことを言っているのは分かる。でも、世界の行く末はあなたの手の中にある」


「くそっ!」


 俺はその場にしゃがみ込むと両手で頭を抱えながら足元の地面を見た。共感覚幻想が映し出す土の細やかな粒に、偽物の気配はない。

 よくもこんなバカげた脚本を思いついたもんだ。奴らの頭をかち割って脳を直接見てやりたい。焦燥に駆られる俺の肩に手が置かれた。正面には瑞穂の眼差し。俺と同じようにしゃがみ込み、視線の高さを合わせている。


「一緒に考えましょう。三人寄らば文殊の知恵」


 瑞穂の後ろから八千代と麟太郎が歩み寄る。


「任せきりにはさせないわ。可能の限り力を貸します。だから、恐れないであなたの考えを聞かせて」


 俺は次第に冷静さを取り戻していた。日立アキラ、富士芳明、犬童剛志、小山慎平。世界に翻弄された彼らの思いは、おそらく真実に近いものだ。これまでの旅路で聞いたことを整理するように、頭を言葉で満たしていく。


 まず、世界は複雑だという事実だ。過去の人はこの複雑さを個人の意識が背負う責任によって単純化しようとした。しかし富士の話によると、意識とは拒否権であり自由意志ではないという。責任という概念は幻想と化してしまっている。ここで改めなければならないのは、人類とは特別な存在ではなく、進化の延長線上に位置する生物の一種でしかないという事実だ。日立アキラによれば、生物は核と壁を形成して発展してきた。それは社会という概念へと抽象化されてもなお維持されている、生命の逃れられないシステムだという。ならば壁を取り払うことはできなくとも、その隔たりを緩やかにすることはできないだろうか。過去を見ると、社会システムと人間本来の生命としての機能が噛み合わずに起きた摩擦は計り知れない。"好き"という多くの意味を同時に抱え込んでしまう人本来の機能を、社会システムと摺り合わすことに失敗した小山を見ればよく分かる。


「社会の壁、国境を緩やかにする必要がある」


 俺の曖昧な呟きに、戸惑いながら八千代が答える。


「政治をなくすのいうのはどう。全てをひっくるめて、一つの国にするの。そもそも敵がいなければ政治は必要なくなるわ」


「——いやだめだ。逆なんだ。敵はいなくならない。だから政治も無くならないんだ」


「それは人の性悪説の話かしら」


「そうじゃない。人は機械のように安定していない。危険性を持った動的で移ろいやすい存在なんだ。これは生物である以上、仕方のない特性だ。それを忘れなければ政治は腐敗せずに生き続ける。大事なのは壁を消すことじゃなく、緩やかにすることなんだ」


 俺は壁を突破する強力な概念はないか思案した。物理的なものではなく、概念的でなければならない。


「インターネットか」


 麟太郎が発した単語に俺は目を見開く。俺の片脳は、インターネットが過去に世界にどれだけの破壊に満ちた改変を及ぼしたのかよく知っている。徐々にだが希望が見え始めた気がした。


「それだ。MMCはインターネット化することができるんだろ」


 俺の問いに八千代は困惑気味に頷く。得体のしれない気迫に彼女は気味悪そうにしたが、俺はパズルのピースがはまっていくかのような高揚に包まれていた。

 MMCによる個人がインターネットに接続できる環境は理想的だった。インターネットの自律分散性は、国家や組織といった中央集権的システムを排除する。壁どころか、核すらも分散させる強力なシステムだ。


「けど過去にインターネットは個人間の衝突を数多く起こした。それに嫌気がさしてインターネットから自ら遠のく者さえいたほどに」


 八千代の呈する不安要素に頭ではカチカチとすぐに回答が組み上がる。まるでガソリンをがぶ飲みするアメ車のように、脳が糖分を分解して高速回転しているのが分かる。アメ車なんて乗ったことも見たこともないというのに、MMCの助力でそれを認識してしまっている事実に笑みがこぼれた。


「それは人類がコンピューターが事象をシミュレーションする計算機として見ていたことに原因があったんだろう。だがコンピューターは俺たちが思う以上に俺たちに影響を与え、日々進化していた。つまりコンピューターとは人間の体の一部であって、共進化する人工物だという認識の方がおそらく正しい。あらゆる情報の共有が可能となるコンピューターは、世界の自然現象をノードとして切り出してネットワークに繋ぎ、入力に対する出力として人間にとってある種の意味作用を形成していた。世界のあらゆる現象がネットワークで繋がり、一つのコンピューターを形成する。つまりコンピューターは物理現象と認知世界の間に万能のミドルウェアを提供する存在になりえる」


「コンピューターはもはや人体の一部ってこと?それは見解が別れそうね。そうした認知のずれが対立を生み出しているとも考えられない?」


 瑞穂が冷たく言い放つ。確かにそれは間違いではない。教会と機械派の争いは生命が何たるかの認知のずれに他ならない。俺は思考の回転数を上げていった。まるで一つの実験のように、あらゆる可能性を浮かべては消し、その断片を拾い集めていく。


「まさか全てが意味世界なのか——」


 俺の何気ない呟きに三人が目を合わせ合っている。彼らの疑問に答えるべく、興奮を抑えて冷静さを手繰り寄せた。

 コンピューターがそうであるように、あらゆるものは我々の体の一部と考えてもおかしくないのかもしれない。眼鏡は目の延長線上にあるし、靴も足の延長線上にあるものだ。社会は個人で処理しきれない膨大な現象を代わりに処理してくれるし、そうして生まれたものが国家や組織だ。瑞穂の言う通り、あらゆるメディアは拡張することで多数解釈が生まれてしまう。組織に雇われることを単なる歯車とみることも、自己実現の手段ともみれるし、かつて栄えた資本主義を消費の有効活用とも、単なる資本の駆動ともみれる。つまり世界は既にパラレルワールドであり、人は皆同じものを同じように見ることができるといった共通した現実という幻想は崩壊、人々は別々の現実を生きていくことを意味していた。


「もしかして、パラレルワールドとはかなり理想的な形なんじゃないか?」


 八千代と麟太郎を含む、瑞穂はどういう意味だという疑念の表情を浮かべた。


「各々がそれぞれの現実で生きていくということは、絶対的なものはないことを意味している。この場合、絶対的だと思い込まれやすい国家や組織といったものは仮想化する。それは、核と壁を緩やかにすることに他ならない。そうか、段々と見えてきたぞ」


 国家や組織といった社会的な概念は、そもそも個人の処理能力を向上させるためのシステムだ。だから社会とは眼鏡や靴と同じように、俺たちの体の延長線上にあるものだと言える。


 社会だけではない。他者すらも——


「俺たちは皮膚に覆われた一つの体なんかじゃない、ソーシャルネットワークを広げて拡張していく存在なんだ。そう感じることができるシステムの構築が必要だ」


「つまりどうしたら?」


 今の俺なら八千代の問いに答えられる。

 社会の発展には常に高度な抽象化が行われてきた。物々交換が貨幣から電子マネーへと推移したように。つまり、人類の発展の根幹にありながら高度に抽象化したものを可視化することが新しい世界の幕開けとなるのかもしれない。


「経済——戦争——政治——」


 俺の呟きに三人が期待の眼差しで射抜いてきたが、おちおち飛んでくる矢に射殺されてはいられない。


「地上の人々には、MMCを応用した拡張現実をもって軌道都市の住人を認識してもらう。生命工学術とサイバネティクステクノロジーがいつあんたらに身体を提供してくれる——かは分からないが、まずはあんたたちを人間だと認識してもらうことが先決だ。あんたたちには地上で自分たちが人間であることを主張してもらう」


 八千代はそれで構わないと頷いた。


「けどそのあとは?」


「暴力指数と経済関与指数の可視化だ。数値化して認識番号のように個人に背負ってもらう。絶対値を定めるのは難しいからまずは相対的な数値になるだろう。この場合、国家や組織もこの数字を背負ってもらう。暴力はある程度個人に委ねられることになるが、暴力が国家ぐるみで囲った絶対的なものではなくなる。数値として視覚に現れる以上、暴力の行使と拒否の相談は常に数値から導かれることになり、それは個人も組織も同じ条件だ。そして経済関与指数は、個人がどれだけ経済を回転させたかに依存しない。今後の世界で俺が英雄的扱いを受けたとして、俺が利用していた豚頭の肉屋は間接的に英雄の誕生に寄与したことになる。直接でなくとも、そうした間接的な連関を数値化していけば、必然的に他者は自身の身体の延長線上にいる事実を可視化できる。最後に、一人一票の民主主義の撤廃だ。個人は更に分割されなければならない」


 個人が一人という考え方はおそらく今後の世界には適さない。個人は、更に細分化できるというのが事実だからだ。今の俺の頭には、岸部航と甲賀麟太郎の二人の考え方が存在しているように、脳が一つであれ個人は分解することができる。賛成に0.7で反対に0.3といったように、選挙投票も個人の内側でせめぎ合う可否の数値を細かく提示できなければならない。1か0とは結局のところ極端な決断なのだ。これから訪れる世界において、個人とは人の最小単位ではなくなる。個人は更に分割することが可能になり、俺たちは自身を分人だと認識を改める。


 分人社会の到来。壁を緩やかにし、複雑な世界を複雑なまま生きることができるのを願って、俺はその思想をそう名付けた。


 八千代は瞼を大きくしばたかせた。口は半開きになり、しばたいた瞳は大きく開かれている。まるで雷にでもうたれたかのようだ。


「驚いた。天啓を得たみたい」


 俺は語り疲れて尻を着く。大きくため息を吐いて、高揚を身体から追い出した。


「安心には早い。正直、今後の世界がどのように移ろうのか想像もつかない」


 それでも実行するだけの価値はあるんじゃないかと思う。


「そのためにはまず戦争を終わらせないと」


 俯く俺に瑞穂が手を差し伸べる。影の中から伸びる手の先、逆光越しの彼女は機械的な冷たさには似合わない笑みを浮かべていて、そのギャップについつい見惚れていた。

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