第7話 葦原瑞穂

 任命式を終えて大聖堂を出ると、日暮れがゴシック調の建造物特有の尖頭群の裏へと傾いていた。本日の講義は全て終わり、信徒は各々の宿舎へと戻っていく。教区内は下町と違って整備が行き届いていた。花壇の花は色を散らしたパレット。蝶が舞い、濃い芝が息づく。高等部を修了できれば生命工学術を受けられるようになるが、同時に今の俺には無法の下町で死と隣り合わせの生活が待っている。考えると気が滅入る。不意にそんなモラトリアムに襲われた。


 と、物体の動きに押されて、空気が一斉に大移動を始めたことを細胞レベルで感じ取る。人が力を抜き、そして鋭く振りぬいた気配。つい最近まで何度も何度も感じていたおかげか、まだ鈍ってはいないらしい。俺は咄嗟に右腕を顎の位置まで上げた。同時に何かがぶつかる衝撃。後方から人の腕が俺の顔にめがけて薙ぐように襲ってきたのだ。腕の先には夕暮れの朱色を反射したナイフの抜身が映る。刹那、半身で背後を振り返りながら左腕で襲撃者の刃物が握られた手首を掴んで固定し、間接を極めてナイフを奪い取り、左頸部の斬撃からの手首を返して右頸部を斬撃。最後には胸部の下を手首のスナップを利用して切り裂いた。二秒以内の武器を奪い取ってから三撃。我ながら見事なカウンター。が、手ごたえはなく、呆気にとられていると小内刈りで路上に倒されてしまった。


「見事な連撃だった。でも詰めが甘い。それに以前に比べて体幹が弱っているみたい」


 襟を掴んだまま、路上で仰向けに倒れる俺を青ざめた瞳が見下ろしていた。長く黒い、まとめられた髪がはらりと肩越しから釣り下がり、鼻筋を横切る。細められた遺志の強さが滲む視線が、薬に侵された目に刺さった。すぐ近くでは犬童と小山が”またか”という表情で俺を見ている。後ろめたさで視線を外すと、襟を掴んだままに抑え込む瑞穂の腕を払いのけてその場に立ち上がる。奪ったナイフは銀に塗装された木製で、刃先は丸く削られた模造刀だった。


「訓練場にも来ないで、君はいったい何処で何をしているの」


 非難の声明をあげた彼女、葦原瑞穂あしはらみずほは俺と同じ短刀ナイフ術科の同級生だ。俺と瑞穂は主にナイフで戦闘する術を学び、共に技を磨いていた。瑞穂と俺はナイフ術科で頭角を現し、瑞穂に至っては次代の聖騎士は確実と評されている。反して俺は、訓練中に頭にをしてから悪夢に悩まされる日が続き、身体と精神の健康、その両方を著しく害してからは瑞穂を含む術科から距離を置いていった。今や下町に身をやつした無頼でしかない。瑞穂はずかずかと距離を詰め、俺の頬を片手のひらで掴んで睨んだ。もう片方の手は俺の手首に親指と中指を回している。


「目の下に赤黒いクマ。ドラッグ常用者の症状だ。脈も遅い、スピードだね」


 俺はその手を払いのけた。


「もう術科には戻らない。頭の整理で手一杯なものでね」


 瑞穂は腕を組んで仁王立ちになると、不敵で尊大な表情のまま俺の全体を見ている。


「事情は聞いているさ。悪夢に悩まされているとか」


 俺はキッと犬童と大山を睨んだが、息を合わせたかのように二人とも視線を逸らして知らんふりをきめこんだ。


「君がヤク漬けになって今後の人生を破綻させても私には関係のない話だ。しかしナイフ術で私と対等に渡り合える者が君の他にいなくて困っている。なので君には早急にその症状を克服して引き続き私の技の実験台になってもらう。いいね?」


「いいわけあるかっ」


 なんて自分勝手な女だ。奇病に悩まされ、ドラッグにまで手を染めて理性を維持する知人への言葉とは到底思えない。労りなど欠片もなく、あくまで自分のペースに合わせようとさせるなんて。俺の答えは意に介さず、瑞穂は横柄な態度を崩さない。きっとこいつには独裁者の前世があったに違いないと心の中で密かに非難した。


「心配ない。君の悪夢を克服するために私なりに色々調べた。君とはこれまで何百回と手合わせしてきたが、君には主に体力面において不足がある。だから容易に態勢を崩される。君は体力の基礎を一から鍛えなおす必要がある」


「それが悪夢を消すのとどう繋がるっていうんだ」


「悪夢の消し方は分からない。だから悪夢に耐性のある体力を身につければいい」


「無茶苦茶だ」


 あまりにも荒唐無稽な策を理路整然と並べたてる。瑞穂とはそういうやつだ。悪夢を消すのではなくそれに耐えうる体力をつけろだと。今や俺はドラッグ常用者で、術科に身を置いていた頃の体力と呼べるものは既に残っていない。だが瑞穂の言葉の全てを否定しきれなかった。というのも、この女の思考は理系のそれと同じであり、根拠のない希望は抱かない。瑞穂の無茶苦茶な話に俺なりの補足を付け加えて再考してみる。どうやら瑞穂は紛いなりにも俺の悪夢を消す方法を調べたが、何も見つからなかった代わりに別の対策方法を調べあげた。結果、無類のタフネスを身につければ、精神疾患も克服できるのではと仮設を立て、こうして俺に接触を図ったわけだ。


「なんでも体力というのは身体的なものばかりを指すのではないらしい。精神も体力を構成する重要な要素なのだとか。ストレスへの耐性、つまりは防衛体力を身に着けろ」


「馬鹿言え。誰がそんなこと」


「だったらこのまま覚醒剤に頼って生きるの」


 もっともな話だった。このままスピードに頼り続ければ今後の一生を下町の闇と共に生きるハメになる。とは言え、ストレスへの耐性を強めるために、体そのものを鍛えろなど聞いたことがない。しかし、それが当たらずとも遠からずな気がするのは、俺とこいつの思考過程が似ている所以か。根本的な解決にはならないが、試す価値はあるかもしれない。


「ちっ。具体的に何をしたらいい」


 悪態をつく俺に対し瑞穂はくるりと背を向けると、とある建物を指さした。その先には教会書庫がある。


「君は人の話を易々と信じるほど器の大きな男じゃないだろう。自分で調べてみるといい」


 そう言い残すと瑞穂は立ち去った。黒い髪が風に揺れて夕陽に反射すると、花壇の草花と同じ印象を残す。犬童と小山は俺へ蔑みの表情を送った。


「まったくイライラさせやがる」


 犬童が俺たちを見てボヤいた。

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