第8話 錬磨

 翌日の放課後、教会書庫で数冊の本を借りた。書庫は勤勉な信徒が黙々と本へと向かっていて、俺のようなクスリ漬けには場違いに思えて、宿舎の自室へ逃げるように戻った。体力理論や器官系、身体と精神といった分野に抑えて借りた本を机の上に積み重ねる。体力が悪夢への耐性にどれだけ寄与するかの疑問はぬぐえないが、本を開いて字を追い始めると、すぐに何も聞こえなくなった。気が付けば数時間読み続けていて、もしや知的快楽というのはスピードにも似ているのではないかと恐怖する。


 ふと、途切れた集中力を尻目に、木造の壁を見つめてみた。もう古い宿舎は点々とカビが根を張り、人生につまずきそうになっている俺を見ている。いったい何を間違えたというのだろうか。俺はただ、ナイフを握り、何も考えず、相手の動きを読み取って、高速に回転する脳の処理能力に身を預けていたあの瞬間が好きだった。隙を見て相手の急所を突くことができれば言いしれない達成感に満たされる。何をされたのか分からないという表情をした人間の間抜けさといったらなかったし、瑞穂の悔しがる顔がおかしくて、いつも新しい体捌きを考えていた気がする。だが、今の俺といえば無気力に日々を消費する、よくいる若者の青春の浪費でしかない。過去の輝きと現在の空虚さのギャップに耐えかねて、翠さんから受け取った注射器を腕に打つ。だがスピードの燃えるような高揚は訪れなかった。


(そういえばスピードじゃなかったなこれ・・・)


 翠さんが薬物で傷ついた体を修復するためのものだと言っていたのを思い出す。諦めてベッドへと身を投げ出したが、眠れば悪夢が飛来することを恐れてすぐに体を起こした。そしてまた本を開いて文字を追う。この悪夢から逃れられるのならと、藁にもすがる思いで。

 そうして数日をひたすら情報の取集に注いで、今度は練磨に向けた計画とメニューを立て始めた。その間、下町にも講義にも出なかった。眠ると悪夢に悩まされたが、不思議とスピードが欲しくはならなかった。貪るように、ただ自分がやりたいことを突き詰め続け、日が落ち、夜が明け、この生活を始めて五日目の朝、扉を叩く音で悪夢から目覚めた。


「おい、生きてる?」


 小山の声が扉越しにくぐもって届く。あぁ、と言って返事をすると、遠慮もなく不躾に扉が開いた。


「講義も出ないで下町にもいないから何をしているのかと思ったら、ずっと部屋にいたのか」


 俺はベッドに寝転んだまま、右腕を目の上にのせて朝日を遮った。小山が近づいて、積み上げられた本の前でとまる気配を感じる。やがてその隣に置いておいた紙を拾いあげた。紙にはメニューがびっしりと書き記してある。


「本当にこれをこなすのか。俺たち斧術科ふじゅつかの錬成科目なんかよりもずっとキツいぜ」


「斧術科だけじゃなく短刀術科よりも最悪さ」


 あれからひたすら効率的な体力素養の身に付けけ方をあらっていった。そうして導き出された答えは、それをはじき出した自分でも嫌になるものだった。だが毎晩の悪夢がこれで解決できるなら・・・


「そういえば何しに来たんだ」


 特訓メニューの細部を見ていた小山は記された紙を俺の胸に押し付けた。


「犬童も心配している。教会書庫で待ってるって」







 教会書庫は数日前と変わらず、数人の勤勉な信徒がいるだけだった。薄いニスが丁寧に塗られた巨大な本棚には、あなたの手に取られるのを待っている無数の本。本の劣化を抑えるために庫内は日光が遮られ、鬱蒼とした静けさが立ち込める。燭台にちょこんと置かれた蝋燭が、必死に明かりを届けようと揺れていた。明かりが壁面に俺たちの影絵を映す。目の前を大きなホコリが落ちた。上を見ると、剥き出しの梁が絡み合い、厚い天井を支えていた。厳かな空間に、犬童の陰鬱なオーラはおおよそ隠せるようなものではなく、広い書庫に入って数秒で見つかった。犬童は大きな机の端に本を数冊置いていた。俺と小山は犬童の向かいの湿気で膨張した椅子に座った。


「それで、本当に特訓するわけか」


 犬童は、俺が文字通り寝る間も惜しんでせっせと特訓を書き記した紙を机に置いた。呆れるでもなく、馬鹿にするわけでもなく、数秒の沈黙を経て俺を見る。


「なんでこんな無茶な内容なんだ」


「身体を鍛えるには、筋力、持久力、瞬発力、敏捷性、平衝性、柔軟性、巧緻性をバランスよく鍛えなければならないらしい。それら全てを囲い込むためにはそれだけの量をこなす必要がある」


 犬童は納得したように頷く。犬童と小山は共に斧術科を専攻していたからか、俺の言うことはよく理解しているだろう。


「俺たちも体力について調べてみたんだ。身体面を鍛えれば精神面も強くなるのは本当らしい。葦原も言っていたが防衛体力というらしい。このメニューみたいに辛い特訓をこなす必要があるとか。葦原のやつ、単に無茶言っているわけじゃないようだぜ」


 犬童のそれを聞いて安心する。まぁ、効果が無ければ無いでそれでいい。とにかく、何かをやっていなければ落ち着かない。俺は立ち上がって犬童と小山を見下ろした。悪意のある顔になるようにたっぷりと頬をあげた。二人はお互いに顔を見合わせると、俺に向き直る。


「まさか今から?」







 体力の基礎は持久力だ。ある程度の距離を一定の速度で走り続ける。持久走は地味で単純だが比較的に心が折れやすい。かつての体力は抜け落ち、代わりに嫌な感触をした汗が噴き出す。不摂生とスピードのツケだ。まだ20分程しか走っていないというのに、膝の裏の腱が痛み始めている。脚は重く、心臓は爆発寸前。背後からは犬童と小山も同じように走って俺についてきている。二人とも苦しさに喘ぎながら、なんとか脚を前へと出し続けている。その姿が何とも醜い。俺を含め、容姿に恵まれない者は何をしてもサマにならない。


「お前らは関係ないだろう。なぜ着いてくる」


 俺がそう言うと、二人とも”うるさい”と声にならない声で反論した。犬童はか細い四肢を振り回してなんとか走っている。小山は腹の脂肪が邪魔をして今にも倒れそうだった。


「このメニューをこなせば何かが変わる気がしたんだよ。なんだか妙な説得力があるんだ」


 小山が要領を得ない返答をする。何かが変わるといっても体力のない不細工が体力だけはある不細工になるだけだ。むしろ体力がある分、女性からは恐怖の対象になるだろう。何が二人をそうさせるのかは知らないが、俺自身がこんなバカをしている以上、二人を否定する根拠はできない。

 教区内では様々な術科が日々の訓練に励んでいた。枢軸教会アクシズは信仰だけでなく武術にも力を入れている。強い騎士団を維持するためだ。騎士団入りできなかった者はその武術で下町のゴロツキへと身を堕とすのだが、教会はその事態には一切関わらない。安定した秩序だとかには興味がないようだ。教会の態度に異議を立てる者も少なくないが、やはり教会が起こした生命工学術の革命には逆らえないようで、施工許可証の剥奪が怖くて強く出られないでいる。生命工学術とは、それだけ革新的なのだ。生命工学術を用いればなりたい自分が手に入る。ほしい特技を身に付けられる。美も、今や金さえ払えば手に入る時代だ。大戦禍グレート・ウォー以前の人類の歴史は今となってはもうほとんど残されてはいないが、過去の人が今を見たら何を思うのだろう。

 遠くで、槍術科の信徒が等身大のわら人形に向かって突きの練習をしている。その隣では弓術科の信徒が弦の張りを確かめていた。その更に隣には斧術科が見える。犬童と小山の古巣だ。犬童が俺を追い抜いた。それにならって小山も粘ってついていく。追い込みをかけているようだ。


「これが終わったら腕立てと腹筋。明日は階段ダッシュが待ってる」


 二人の背中に呪いの言葉を吐くと、みるみる速度が落ちていった。


 宣言通り、翌日には階段ダッシュで瞬発力を磨き、腕立て伏せの姿勢を長時間キープして体幹を追い込み、スクワットで大腿筋を引きちぎる。更に翌日にはダッシュ&ターンで敏捷性を意識して鍛えた後に仕上げの持久走。ただ体を追い込むことに飽きたなら、ボールを足でコントロールして巧緻性を習得し、夕日をバックにして柔軟体操をする。模擬のナイフと斧を持ってスパーリングをこなして、実戦に沿った体力が身についているのかを確かめ、不要なものと必要なものを精査してはメニューに修正を施した。行動体力を養うために講義に出ることも怠らず、放課後はひたすら心と体を追い込む。そんな生活が一か月程続いた。どうせ犬童と小山はすぐに飽きるだろうと踏んでいたが、脱落する素振りは見せなかった。二人は斧術科に戻りたいのかもしれない。下町に寄生する、哀れな信徒で終わらないように。俺自身、仮に教会騎士団に入団することが叶わなくても、今のこの時間が、言い表せない恐怖で覆われた未来を切り開く糧になるような。いつのまにかそんな根拠もない希望を抱いていた。現実として、そんな因果関係などありはしないのだが。

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