第9話 瑞穂と対峙

 模擬ナイフの嘘っぽい鈍色が右頬をかすめた。突き出た刃を握る右腕の先には、肩にかかる長い黒髪。胸元から肩口にかけて視線を移し、ナイフを突き出した張本人の青ざめた瞳がナイフよりも鋭く細められていた。頸動脈を狙って一閃した瑞穂の模擬ナイフを、俺は左手のひらで外側へと逸らした。刃はすぐに引き戻され、次の攻撃へと移り始める。俺の頸動脈を刺し損ねた刃は宙を舞って翻り、俺の左手首を細切れにしようと素早く左右に往復した。


(瑞穂め。城を落とすにはまず外堀からってか)


 左手首を狙う瑞穂に俺はあえて踏み込んだ。当然、俺の手首の位置は瑞穂の想定よりも手前に移動する。俺は瑞穂の刃に触れないように左手首を内にして瑞穂の手首を受け止めた。そして更に一歩踏み込んで、右腕を瑞穂の後頭部に回し込み、そのまま抱き込むように顎を掴んで手前に引いく。瑞穂は首の骨折を防ぐために、止むを得ずなすがままにくるりと回転して倒れた。俺は勝利を確信した。が、瑞穂はその回転の勢いでナイフを振り、倒れながら俺の鼠蹊部を切り裂いた。


「ちぇっ。勝ったと思ったのに」


 鼠蹊部は斬られれば大量出血は免れない急所だ。止血も難しく、深い傷を負えば助かる確率はかなり低い。倒れた瑞穂の手を掴んで引き起こすと、膝周りの砂埃をサッと払った。


「いや、まんまと倒された。最後の斬撃は一か八かだったさ。君はずいぶんと調子が戻ったようだね」


 そうして次にはここではこうするべきだっただとか、ああするべきだったとかを、ああでもなこうでもないと議論する。そしてまたスパーリングをして問題点を洗い出すというのを繰り返す。やがて疲れ果てて、二人とも石畳に直接腰を下した。


 汗の粒が筋を残して流れ、顎の先で雫になる。上気した頬に赤い達成感が広がり、肩から立ち上る熱気が教会の風に吹かれて横へと消える。まるで煙草の煙のよう。建物の尖頭が複雑な影で階段を侵し、舗道の砂が、熱気が、木々の隙間を通り過ぎる。


「悪夢はどうかな」


 瑞穂が尋ねる。眼は手元の模擬ナイフに向けられていて、柄の汗を純白のタオルで拭っている。


「悪夢はまだ見てるけど、それが何だったか思い出せなくなってきた」

 

「それは改善したってこと」


 俺は”あぁ”と返事をした。瑞穂はナイフをポケットに仕舞うと立ちあがる。そしてトレーニングで痛めた肩を数回ほど回旋させてこちらに向き直る。


「良かったよ。いずれ術科にも戻るといい」


 俺はそれに返事をしなかった。誤魔化すように下町の角を見下ろす。下町は煙突から漏れる薄暗い煙で霞んでいた。あの先では、今日もあのコウモリ女の街娼が身を削って日銭をかき集めている。葉のような清掃人が、豚のような店主が。薬で高揚していたあの平坦な日常から抜け出すことができるのだろうか。堕落の一途を辿るはずだった俺が、厚顔無恥にもまたここで練磨の日を送ることが許されるのか。瑞穂の姿は逆光で黒く塗りつぶされてよく見えない。答えあぐねる俺の代わりに瑞穂が口を開いた。


「君が考えていることは概ね推測できる。挫折したとしても再度立ち上がれたなら、挫折の過程にも意味はあるさ。必要な経験だったとね」


 そして瑞穂も下町を見た。彼女も枢軸教会アクシズの修了証を手にし終えたとき、生命工学術をその身に施すのだろうか。その身に蜘蛛の技術を、魚の生態を宿すのだろうか。成人後、9割以上の人間は施術している。だったらこの、この瞬間の輝きは今しか見ることができない。俺は黒く染まる瑞穂の、この瞬間を網膜へと焼き付けた。


「岸部、葦原」


 遠くから小山の呼ぶ声。焦った様子でこちらへと走って来る。やがてなめらかに制動し、荒い呼吸を整えることもせずに言葉を紡いだ。


「犬童が聖騎士になるかもって・・・」

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