第27話 甲賀麟太郎

 勢いよく目を開く。天井の錆びた梁からホコリが舞い落ちた。良質な睡眠をとり終えたかのように頭は冴えていて、目はぼやけていない。交信塔にある自身の身体に戻ってきたことを理解し、俺は飛び起きて胡坐をかくと周囲を見回した。


「瑞穂」


 と呼びかけようしてすぐ隣にいることに気が付く。俺よりも早く目が覚めた瑞穂は正座で背中を向けている。その右手には冷血コールド・ブラッドが入った注射器があり、あろうことか水でも飲むかのようにしてあおっていた。


「お前なにして——」


 冷血を飲み干した瑞穂は上半身だけをくるりと反転させると、無感情な瞳を俺へと向ける。冷血は飲み干されておらず、彼女の口の中に含まれていた。すると両手を俺の頬に添えると有無を言わさず口づけた。止めようと両手をあげたが間に合わず、俺はまるで降参したかのように両手上げた格好のまま固まってしまう。

 瑞穂の口づけは無機質な感動を俺へと植え付けた。街娼では到底味わえない、同級生から伝わる味は人工粘膜の化合物。どうにもおかしくて、でもなんだか愛おしくもあり、そんな不思議な感動に身を寄せて俺は彼女の肩に手を添えた。

 やがて瑞穂の口内から俺の口内へ冷血が注がれていき、ドクンドクンと、喉か、食道を通過して胃の中へと注ぎ込まれると、途端に目の前が回転した。空間を形成する、めくるめく量子の輪。その繋がりに触れてしまえそうなほど高次元な感覚。QEDが何なのか、本当の意味で理解した気がした。

 瑞穂は冷血を注ぎ終えると口を離し、そのまま俺の眼を見つめた。その表情に恥じらいはなく、事務的で作業的、そんな機械の真実だけがある。だが俺はそれが嫌だと思わなかった。それでいいとさえ思う。それはそれで面白かった。


「冷血を介して航のMMCをアップデートしたわ。これでQEDが使える」


 俺は立ち上がると、いつの間にか開いていた非常口を見た。甲賀麟太郎が陽光の後ろに立ち、錆びついた骨組みの手すりに腕をかけて外を眺めている。その身体は、無数の細かな粒になってぼやけ、今にも散らばってしまいそうだ。


「その身体——」


 俺は麟太郎に触れようと手を伸ばした。だがその身体には触れられず、粒は俺の手を避けるかのように散らばり、手を引くとまたもとに戻っていく。


「QEDは全てお前に預けた。俺はもうじき消える。気にするな、俺は既に死んでいる」


 この技術があればもう一度八千代とやり直すことができるのになぜそうしない。そう言いかけて、言葉にするのをやめた。そんなことは彼らだって百も承知だろうから。

 八千代と麟太郎が只ならぬ関係だったのは見て分かる。たとえ時空間を歪めようとも、大量の冷血が必要になろうとも、一緒にいられるならそうしたはずだ。だがそうしないのは、彼らが充分に自制できる人だからなのだろう。きっと八千代と麟太郎はまともに別れの挨拶もしていない。感動的なドラマに感傷する暇もなく別れ、忘れ、そして眠りにつく。

 だからせめて、俺だけは伝えておこうと思った。


「ここまで来られたのはあんたのおかげだ。ありがとう」


 麟太郎はJPCジャンパブルプレートキャリアに装備されたユーティリティポーチから煙草とライターを取り出すと、シュッと音をたてて火を灯した。フィルター越しの煙で肺を満たし、ため息のように吐き出した。


「感謝など必要ない。さっさと行け」


 高所特有の強い風が吹く。紫煙が横へと流れ、風を浴びた煙草の火はほんの少しその輝きを強めると、遥か下方の地面を目掛けて落ちていった。

 落ちていく煙草に目を奪われすぐに麟太郎へと戻したが、既に彼はそこにはいなかった。風に流されていく粒と煙があるだけで。

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