第28話 地獄

 麟太郎の紫煙を眺める俺の背中に瑞穂の手のひらが添う。遠くで轟く爆発音が交信塔に反響した。


「やるのね」


 俺は頷くと、膨張を続ける量子の輪へと手を伸ばす。時空間の歴史を探り、”俺”が戦場にいたかもしれない確率の雲を掴み取る。空間は引き延ばされ、次の瞬間、俺は平原のど真ん中に突っ立っていた。教会の騎士団と機械派の兵士が互いに剣を突きつけ合い、爆薬を投げ合い、そして絶命していく激戦の最中だ。


「悪夢を見よう」


 目を閉じ、開いた次の瞬間そこは既にの戦場と化していた。延々と続く塹壕と無数に積み上げられた土嚢の層。土の壁は崩れないように木材で打ち付けられている。深い灰色の空に太陽は遠のき、少量の光に地表は爆炎で霞む。どこもかしこも黒煙が狼煙のように立ち上り、火炎と毒ガスで枯れた木が倒れることも許されずに棒立ちしている。草の一本も生えていない土は水を多く含んで泥と化して、有刺鉄線は泥を纏って地面を這い、地平線の彼方までのびている。


「なんだ・・・?」


 両軍の兵士は自分たちがいた戦場とは全く違う不気味な様相に動揺していた。何が起きたのか理解が及ばない哀れな声色だ。戦場を見渡し敵を見て、結果何も分からずに自身の足元を見る。さっきまで互いに殺し合っていたなど嘘のように戦闘は止まり、辺りは静寂が支配した。

 静寂を破ったのは三度の長音を放つ笛の音だった。塹壕の影の奥から鳴り響くそれに、戦場の全ての兵士が目を向ける。と、大量の銃弾が一斉に飛び、戦場に立ち尽くす教会の騎士を次々に貫いた。雄たけびと同時に塹壕からコートに身を包む無数のイギリス兵が飛び出し、一気に戦場を駆け抜けていく。兵は土星を横半分に切ったかのような鉄帽を被っていて、エンフィールド銃が握られている。突然の攻撃に教会と機械派の両陣営は瞬く間に崩れ、恐れのあまりに武器を捨てて逃げ出すも、その背中を着剣したエンフィールドが串刺しにしていく。立ち向かった数少ない騎士は、取っ組み合いのもみくちゃになりながら互いの身体を銃剣とナイフで刺し合って同時に息絶えた。銃弾のカーテンから身を守るため、土嚢の裏で縮こまる機械派の兵が嗚咽を漏らしながら頭を抱えている。そこへ特徴的な菱形をしたマークV戦車が土嚢を越えて前進し、無常にも機械派の兵を踏みつぶしていく。機械派が大砲で攻撃しようと射座を回転させていると、塹壕の影から飛んできたドイツ兵が装備するパンツァーファウストの衝撃で砲塔がひしゃげた。


 俺は過去の呼び出した。教会書庫の書物でしか見聞きしたことがない歴史の跡。麟太郎の脳が見せた戦場の悪夢のおかげでイメージは容易く、共感覚幻想で見た戦場の歴史をMMCが解読していたので苦労もなく過去の戦場は現れた。

 目を瞑って空を見上げながら大きく息を吸い込む。土や葉の匂いはなく、炸薬の匂いだけが明瞭だった。


「これはなんだ」


 声の方へ振り向くと、ダイナマイトで空いた大きな穴の底に日立アキラが立っていた。


「地獄だよ」


 日立は自身の周りを埋め尽くす夥しい数の死体を見回した。穴は泥水が溜まり、水面からは人の腕が伸び、腐食した死体の顔が水面に浮かぶ。抉れた土が崩れ落ち、波紋が泥水を伝った。


「君は、神に会ったんだね」


「あぁ——」


 俺は日立に背を向けると穴から離れるように歩き出した。空を見ると、航空機がプロペラから炎を上げてこちらへと向かってきている。それは吸い込まれるように日立がいた穴へと入り込むと轟音と共に炎の柱が上がる。同時に熱風が後頭部をチリチリと焼いた。

 一緒くたになって塹壕に身をうずめて隠れている教会の騎士と機械派の兵の足元にガス弾が落ち、プシュッとした音と共に糜爛剤びらんざいが噴出する。両者はそれが毒ガスだとも知らずに呼吸を続け、やがて自身の体の異変に気が付きのたうち回りはじめた。火もなく焼け爛れ始めた両腕と顔面に恐怖と絶望へと追いやられ、ガスをまともに吸い込んだ者は吐血し窒息死した。

 戦場は瞬く間に悪夢で見た死体たちで溢れかえった。十字架のように胸にナイフが突き刺さった死体が両手でナイフの柄を握っている。引き抜くこともできぬまま、大量出血でショック死したのだろう。握られた両手はまるで空へと祈りを捧げているかのよう。爆風で飛び散ったガラス片が目に刺さった機械派の兵は、両目を抑えながら叫び声をあげ、もたれかかれる壁も見つけられないままに戦場の荒野をよろよろと歩いている。


 俺は兵の横を通り過ぎ、近くに見えるトーチカの中へと入った。中には脇腹を抑えて座り込む富士芳明がいた。流れ弾を食らったようで、運よく弾は抜けたのか背中からも出血していた。苦悶の表情に歪んでいるが、富士はいつものように不敵な笑みを浮かべた。


「驚いたよ。いったいどんな技術なんだい」


「今日限りだ。たんと見ていってくれよ」


 俺はそれだけを会話してトーチカから出た。どこからともなく手榴弾が飛んできて、トーチカの中に鉄とコンクリートがぶつかり合う音、そのすぐ後に爆発音が轟く。

 爆撃で倒壊した家屋の瓦礫をよじ登り、木枠を失った窓越しに見える戦場の空にいつの日か見た海はない。空に満ちていた海は地表へと滴って悪夢へと還った。今や時空間は同じ方向へと進行することをやめ、跳躍し、反射し、ひび割れたビー玉を内側から眺めたように分岐した。QEDがもたらした万華鏡の世界。死屍累々の戦場に満足し、俺は目を閉じて乱反射する景色を折りたたんでいく。複数だった像は一つ、また一つと重なって、悪夢はやがて浜辺の波のように穏やかになる。


 タイルの溝を伝う雨水を逆再生したかのように悪夢は縮小し、やがて一滴となって上空へと昇っていった。

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