第18話 神

 小山と別れてから、テラスバーにも似たアジトのロビーにある椅子へと深く腰掛けていた。機械派の工作員が、未調査地区の探索に向けて忙しなく動き回っている。褐色の肌に黒いタンクトップを着た短髪の青年が木箱を持って横切る。その左腕は義手で、傷だらけの銀色と黒い関節に骨っぽい空洞がある。青髪で全身をレザースーツに身を包む女性は、爪先に装備した飛び出し式の仕込みナイフの可動を点検している。集光のためのミラーグラスが顔の上半分を覆っていて、その眼の色を窺い知ることはできない。彼らは瑞穂と同じ、何かしらの理由で損傷した体を機械で補っていた。瑞穂のように体の大部分を機械化した者はいないが、その異様さは充分だ。彼らの変貌ぶりは教会の下町と酷似していて、機械派ユニオンが枢軸教会アクシズの分派であることをよく表している。


 未調査地区では間違いなく枢軸教会の騎士団が立ちはだかるだろう。耐放射能性を備えた俺は教会にとって喉から手が出るほど欲しい実験体だ。捕まればバラバラに腑分けされて、最後には細胞レベルにまで細切れにされるだろう。消去法的に機械派ユニオンの過激な行動に加担せざるを得ず、自身の破滅的な未来に嫌気が差した。諦めかけていた聖騎士への夢とアーキトレイヴへの憧れを糧に、再起を図ろうと奮起した高揚は消え去り、残った燃えかすには虚無の現像。運良くこの闘争に生き残ることができたとして、その先でどう生きていけるのか想像ができず、重い澱のようなものが腹の底に沈んでいるような気がした。


 俺は苦痛から逃れようと覚醒剤スピードを取り出した。錠剤をマッチで炙り、その煙を鼻から一気に吸い込む。力なく首を垂らしてハイになるのを待ったが、そのときは一向に来る気配がなく、もう一度錠剤を炙ろうとマッチを取り出したときに翠さんが俺の手をとめた。


「無駄だよ」


 虚な瞳を前へと向けると、眼鏡越しに俺を見下ろす眼。その口元は俺の瞳と似て虚に下がり、悲惨な現状をただ見つめているかのようだ。


「君はもうハイにはなれない。ここに運ばれたときに私がそう施術した」


俺は怒りも動揺もなく、ただそうなのかと不思議と納得していた。


「どうしてそんなことを」


「担保。君と瑞穂ちゃんを助けた。元に戻してほしいなら富士の仕事を引き受けて」


 そう言うと俺が座る椅子の横に立った。忙しなく動き回る機械派の工作員を俺と並列して。


「率直に言うわ。私はあなたの悪夢を消すことができる」


「俺の悪夢は原因不明だったんじゃ——」


 翠さんは頭を振る。横顔に祝福の兆しがないことを見るに、恐らく良い報告ではない。


「私はね、地上に残る神の最後の末裔。MMCマイクロ・マシン・サイバネティクスの量子通信機能、それで神は今も私に語りかけてくる」


「量子通信って何さ——」


 俺の質問を、翠さんはいつか分かると押し止めた。無線通信など大戦禍グレート・ウォーですっかり絶たれた技術を平然と持ち出す辺り、翠さんも機械ユニオンも現代では測れない文明で生きていることは間違いない。いや、これだけの技術が存在していたことを知りながら、生命の構造のみに焦点を絞り、他のあらゆるテクノロジーを捨て去って低い文明レベルで生きる枢軸教会アクシズが異端なのだ。

 いつのまにか翠さんは語りを止めていた。まるでこの先を語るための覚悟を決めるかのように口元を結んでいる。やがて意を決し、込めた力を解いていく。


「今、君の脳の半分は別の人間のものなの。君が見ている悪夢は、もう半分の脳の持ち主が見ていたかつての光景よ」


 何を言っているのか理解が遅れる。やがて意味を追うにつれて、頭の中にある遺物感に爪を立てて掻きむしった。自身の脳に触れられるわけもなく、爪が頭皮に沈む感覚だけが残る。


「馬鹿げてる。誰のものなんだ」


「大戦禍の英雄」


「知らないな」


 歴史の講義を思い返してみたが、大戦の時代に英雄がいた話は一度も耳にしたことがない。翠さんは知らなくて当然といって表情を崩さなかった。


「この世界には名を知られることもなく埋もれた偉人が多くいる。甲賀麟太郎こうが りんたろうもその一人」


 瞬間、悪夢が脳裏で再生した。悪夢で見た古風な女性が俺をそう呼んでいた。


 名から性別は男性だろうが、記憶にはない。


「大戦禍を終結させた英雄。詳細は不明。その全貌は秘匿にされている。分かっているのは、大事な使命を背負って数多の大戦禍の中を渡り歩いていたことだけ。味方も、共に戦う仲間もいなかったと聞いているわ。それでも彼は不屈の意志で任務をこなし続けた」


「信じられない。その偉人が何のために俺の頭に」


「神は現代に甲賀麟太郎を再現したがっている。君の頭に移植したのは、怪我をした君が偶然転がり込んできたから。航くんは信じるしかないはず。聖騎士への夢が絶たれても、折れずに再起したのは自身の意志だけだと思うかしら。君はそこまで強い人間だった?」


 途端に目の前が真っ暗になる。誰よりも分かっていた。俺は決して強い人間なんかじゃない。弱く、覚醒剤スピードなしでは悲運すら受け止められない、か弱い意志の入れ物だ。あの絶望的な状況で立ち直ることができたことが、俺の頭の中には俺だけじゃない、別の誰かの意志が働いていることを証明していた。


「あの注射器、あれも覚醒剤のダメージを回復するものなんかじゃない。あれは冷血コールド・ブラッドという量子時空と量子場に干渉する特殊な血液。MMCの機能を拡張することもできる。今や死人である甲賀麟太郎の脳を現在の君に定着させるには、彼の脳をMMCと冷血で量子空間に作用する方法で固定するしかなかった」


「もうやめてくれ」


 たまらず言葉を遮った。話を聞き続ければ、体の内側から何者かが俺を蝕んでいくような、体が自分のものではなくなるような錯覚。両手で頭を抱えるように耳を塞ぐと、機械派の工作員の慌ただしい雑踏も、翠さんの手前勝手な言葉をミュートする。だが翠さんは俺の手首を掴んで耳から離す。


「聞いて、大事な話だから」


 うるさい、もううんざりだ。覚醒剤への逃げ道も絶たれて最悪なんだ。心の底からそう思う裏から、別の俺が囁く。


 聞け。何が最善で何をするべきか、お前はもう知っている。


 心の奥底、俺の裏にある真実に限りなく近い自分自身とも言える脳の内側が反響した。それは、瑞穂に身体を錬磨することを提案されたときに、それを受け入れた自分の模様に似ていた。なぜあのとき、あんな無茶な提案を素直に受け入れることができたのか、翠さんの話で裏付けされてしまった。

 それは俺の脳の半分が、英雄の精強な意志を宿した脳だったからだ。困難な任務を後ろ盾なくこなし続けた芯の強い人間の意志が働きかけていたから、俺は覚醒剤に埋没せずに済んでいたにすぎない。本当の俺はか弱い愚民の一人で、それ以上でもそれ以下でもなく、それが俺の全てだった。だったらそのまま、沈めてくれればどれだけ良かっただろう。下町の施術者に埋もれて、貧しく堕落した生活にも、それなりの幸福があっただろう。そんなささやかな望みも絶たれて、目前には教会との衝突のみ。


「クソ、何のためにこんなことをした。俺に何をさせたいんだ」


 翠さんは顎を引いた。眼鏡が光で白く反射して、瞳は反射光の白レンズに隠れる。


「神に会って。神はそれを望んでいる。そうしたらあなたの頭の中にある甲賀麟太郎の脳を取り出してあげる」

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