第19話 機械仕掛けの乙女
ナイフの刀身は蝋燭の橙色に染まっている。教会との戦闘に備え、俺は武器の手入れをしていた。床に座り込で首は項垂れ、無心で刀身を磨く。そうしている間だけ恐怖や不安は消えた。富士がくれた
騎士団は鎧をまとっている。狙うは鎧で守られていない関節や首筋だ。ナイフは戦術的に、急所を狙う前に敵の腕や手を狙って邪魔になるものを排除してからとどめを刺すのに向いている。全身を鉄で覆う騎士団のような相手は不得意だ。体術で姿勢や構えを崩す必要もあるだろう。
どうしたものかと考えていると、すぐ隣に誰かが腰を落とした。油で汚れた毛布を敷くとその上に武器を整備する道具を置いていく。慌ただしく動き回る機械派ユニオンの工作員かと思い、何気なく視線を向けたそこには瑞穂がいた。鋼鉄の掌には拳銃が握られている。
「隣、いいかしら」
あぁ、と言ったつもりだったが声が出ず、数回首を縦に振って応えた。
瑞穂は以前と変わらない凛とした振る舞いで座りこむと、拳銃を分解し始める。スライドを引き、
と、なぜ自分が拳銃の仕組みを理解しているのかを不思議に思う。今や銃はオーパーツ。瞬間、ザラザラとした記憶の波が網膜の裏を過ぎり、見たことのない景色が浮かび上がった。
「ちっ、英雄甲賀麟太郎の記憶ね」
あの死者が彷徨う夢も、甲賀麟太郎の記憶からくるものなのだろう。頭を抑えていると、隣から心配の気を孕んだ視線。
「どんな気分——」
瑞穂は既に俺の事情を知っている風だった。翠さんから聞いているのだろう。
「自分が内側から消えていくみたいだ。そのうち本物の甲賀麟太郎になってるかも」
冗談のつもりだったが、瑞穂は眉をハの字にして視線を落とした。無骨な身体に似合わない繊細な表情に、俺はバツが悪くなって後頭部をかきむしった。
「そっちの体はどうなんだ」
脳の半分が他人の俺に対し、頭はそのままで体の大部分が機械化した瑞穂は何を感じているのだろう。疑問を素直に投げかけてみると、瑞穂は自身の腕を見回した。
「何も変わらない。眼が覚めて自分の体を見て、何をされたか説明を受けて。あぁそうなんだと思っただけ。銃の感触も感じるし、あなたの悲運を悲しむこともできてとても人間的。体の形も葦原瑞穂のオリジナルから
瑞穂の言う通り、体には流麗した美しさがある。鍛え抜かれた生身の美しさに酷似している。生命工学術とMMC《マイクロ・マシン・サイバネティクス》の奇跡は、俺たちの命の形を歪めながらも生き長らえさせてくれている。社会が示してくれる、これが俺たちの望んだ幸せの形。
「あなたも
「あぁ。どんな副作用があるのやら」
瑞穂は考え込むようにして整備の手をとめた。手早く拳銃を組み終えると、整備毛布と
「部屋で整備を手伝ってほしいんだけど、いい」
背を向けると、俺の返答を待つことなくそのまま足早に歩き始めてしまう。毎度のことだが勝手な女だ。
「いいけど何を整備するのさ」
瑞穂は一呼吸置いて。
「私」
※
部屋は機械油の臭いが漂う。木製の作業机の上には
カチリという音で振り返ると、瑞穂が部屋の鍵を閉めていた。
「他の人には見られたくないから」
思わず動揺してしまう。蝋燭に照らされた顔は機械的な冷徹さなど嘘のように艶かしい。俺は自分の表情に何か出ていないか確かめるために手の甲で頬を押さえてみた。甲はじっとりと、緊張の汗に濡れていた。
「ただの整備だろ」
何でもないかのように振る舞う俺に瑞穂は”そうかもね”と困ったような笑顔を見せた。
「何をしたらいい」
瑞穂は手のひらを差し出した。
「握って。触覚フィードバックの点検」
差し出された手は震えて見えた。ただ手を握るだけ。それ以上の意味はない。俺は念仏のように心の中でそう唱えると瑞穂の手を握る。俺よりも温かかった。
「これでいいか」
「正常。次は手を握ったまま私の名前を呼んで。感情シナプスパラメータの確認」
手を握りながら彼女の名前を呼ぶのが恥ずかしく、少し躊躇ったが意を決して瑞穂の名前を呼ぶ。
切れ長の目尻を落とす瑞穂。初めて見た表情に頭の中をかき混ぜられているような感覚に陥る。瑞穂は呼ばれた自身の名前を噛みしめるように、目を閉じて天井を見上げた。感情シナプスパラメータが、彼女の感情を再現するために計算し、MMCを通して脳が処理しているのだろうか。
俺がゆっくりと握った手を離すと、天井を見上げていた頭を下へと向ける。
「次はここ」
瑞穂は上着の下端を両手で捲りあげる。その仕草に俺の鼓動が高まり始めた。滑らかな人工の皮膚に覆われた腹部が露わになる。きめ細かな肌に機械的な堅固さはない。人の温もりがあるだけだ。
片膝を付いて腹部に目を凝らすと、開閉が可能であることを示す線がへその上部にうっすらと見えた。
「ここを開ければいいのか」
瑞穂は声に出さずに頷いた。その実は、声を出さないようにしているのではと邪推し、自身の不誠実さを非難する。両手で衣類を捲し上げる彼女に跪く俺の姿は、きっといけないと分かっていながらも、拒むことができない遊びに胸を高鳴らせる子どものようだろう。
瑞穂がどんな表情で今の俺を見ているのかが気になったが、その表情を見ることは躊躇われた。見てはいけない気がした。
腹部の開口部を開くと、机上の機械類と同じ細かな部品群が重なり合っていた。キーンと静かな高音が体内で響く。
「ボルトの増し締めをお願い」
声が濡れていた。彼女の言う通りに素直に動く俺に、劣情を満たしているかのような背徳的な声音だ。
彼女が手渡すトルクレンチを受け取り、ボルトを一つ一つ丁寧に締めていく。正確な力が伝わる度にカチンと音がした。
「次は作動部に潤滑剤をさして」
スチールの器に入った潤滑剤を綿棒に染み込ませ、干渉し合う作動部分に優しく当てる。浸透性の高い潤滑剤が機械の摩擦部分を保護する被膜を形成し始めた。考えうる作動箇所に丁寧に塗布し終え、緊張の汗を服で拭う。呼吸は乱れている。
すると瑞穂は跪く俺の頭を両の手で包んだ。何事かと慌てた俺は、彼女の顔を見てはいけないと心に決めたことも忘れて、咄嗟に上を見上げてしまう。
その顔に俺は心を奪われた。
彼女の顔は恍惚としていて、鋭い目尻は落ちていた。慈しむような、尊さを咀嚼しているかのような、おおよそ人に見せてはいけない、だらしのない顔だ。
しかし俺はその表情に惹きつけられていた。目を背けられなかった。そのだらしのない美しさに息を飲んでいた。
瑞穂は俺の額を指でなぞった。彼女の口元を指の間から覗き込む。
「やっとこっち向いた」
まずい。そう思ったとき、既に彼女がその渦中にあったように、俺の脳はオキシトシンの過剰な幸福に飲み込まれた。絶望の最中に活力が生まれ、目前が輝き始める。全てに価値があるような気がして、しみだらけの木製の壁すらロマンティックに思えて。機械でありながら背徳に恍惚する彼女をいつまでも見ていたい。その感覚は、背中から強く抱きしめられたときの優しさと同じで——
俺は既にまともじゃないし、彼女は機械だ。こんな関係は成立しない。俺たちが最後、どうなってしまうのか想像もつかない。そうやって理性を手繰り寄せようにも、俺は元から理性的ではないので手繰り寄せるべき理性などなかった。
内側での無意味な綱引きをやめて、ぼんやりとした意識でもはっきりとしたことは、彼女は乙女であるということ。
どこにでもいる普通の、人間的な不安定さを抱いて生きる、機械の乙女の儚き美しさ。
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