第30話 小さな日の始まり

 手術後の精密検査が終わり、経過良好の診断を受けた俺はベッド周りの整頓も済まして荷物を押し込んだ革製のバッグを肩にかけた。隣では瑞穂が花瓶の水を捨てている。

 教会と機械派のひと悶着に区切りがついてから俺はすぐに甲賀麟太郎の脳を摘出した。摘出してから悪夢はすぐに見なくなったが、麟太郎が見てきた戦場の記憶は今も残っている。同じ頭蓋骨の中で、脳幹を通して記憶を共有してきたからだと翠さんは言っていた。摘出された麟太郎の片脳は、長時間にわたって冷血コールド・ブラッドに浸されていたからかすぐに消えなかった。後日、手厚く葬られるらしい。


「忘れ物はないの」


 俺は瑞穂に”あぁ”と答えて、立て付けの悪い扉を開いた。


 あの戦争から3カ月、世界が再生するには短いが、状況は目まぐるしく変貌していった。教会と機械派、軌道都市の長となる日立アキラ、富士芳明、新宮八千代の三者会談が行われ、今後の世界が向かうべき道を討議した。そこに漕ぎつくまでに、軌道都市の存在や共感覚幻想の住人について理解してもらわなければならず、俺と瑞穂は中間役で苦労した。

 その最中、瑞穂が日立アキラを殺したい衝動に悩んでいると俺に相談を持ち掛けた。自身を殺そうとした男を恨んでも仕方がない。だが瑞穂に日立を殺させるわけにもいかず、俺は獣をなだめるように瑞穂を抑える日々を送った。瑞穂はそのたびに俺の胸に顔をうずめて怒りを忘れようと励んでいた。ある日、日立アキラが瑞穂の元へ訪れて謝罪した。日立アキラは今後の世界を立て直すにうえで、自身がどれだけ重要な立ち位置にいるかを理解していたが、それを鼻にかけるようなことはしなかった。日立は今後一生の瑞穂のサイバネティクス化した体の維持コストを負担し、更に富士と共同してその技術を進化させていくことを約束した。そのとき、瑞穂は既に日立の存在の重要性を理解しており、自身の憎悪と切り分けて考えられるようになっていたからそれを承諾した。


 俺がいいのかと聞くと瑞穂は「許さなければならないときもある」と言った。


 それから世界は再構築への道を辿っている。生命工学術施術者たちとサイバネティクス生命体たち。さらには軌道都市の住人が同じ街に住むようになり、そしてその全員が互いに人間であると認め合っている。当然、種族間で小さなぶつかり合いは起きた。だが、暴力の指数化によって暴力を振るった者は種族を問わずに振るった暴力の数字を拡張現実として可視化される。これは絶大な効果を及ぼし、今や彼らは積極的に手を取り合っている。まだ経済関与の指数化や、分人的社会の構築には至っていないが、遠くない未来で施行されるだろう。

 富士芳明は軌道都市の人々のために、義体の作製を始めた。完成にはまだ時間がかかるだろうが、軌道都市の量子コンピューターのおかげで研究は劇的に進んでいるようだ。


 診察室の扉を開けると、作業机の前で翠さんが書類と格闘していた。顔色から疲労が見える。


「部屋は片付いた」


「任せきりでゴメンね。ちゃんと約束守って頭治したんだから許してね」


「当たり前だ。人の頭を勝手にいじっておいて」


 翠さんは両手を合わせて深々と頭を下げているが、その表情は小さな悪戯が見つかった子どものように反省の色が見えない。きっと心臓に剛毛が生えているに違いない。心の底から彼女を恨めないのは、彼女もこの騒動に巻き込まれた被害者の一人だからだ。ある日いきなり天から旧人類としての役割を果たせなんてきた日には、ただの夢だと切り捨ててもおかしくなかっただろうに。そうならなかったのは彼女の母、その先祖代々が自身の家系が背負った重責を根気よく語り継いでいたからなのだろう。


 そんな和やかさをばっさり斬るように翠さんは居住まいを正した。


「本題はここから——私はまだ君に謝らなければならない」


 このときの俺は”またか”と呑気に構えていた。頭の中をいじられ、機械派だの軌道都市だのに巻き込んで、これ以上の驚きはそうそうない。今なら自身の命日さえも受け止められそうな気がしていた。


「甲賀麟太郎の脳を摘出したから君にはもう冷血コールド・ブラッドは必要ない。そもそも冷血はあまり使うべきじゃないの。君という時空間の速度を無理矢理捻じ曲げることだから」


「副作用か」


 翠さんはゆっくりと頷いた。瑞穂が外で待ってくれてよかった。


「冷血の投与を止めた今、君の時空間の進行速度が徐々に減速し始めている」


「どうなる」


「減速が重なり、君と私たちの速度差が大きくなると、もう私たちから接触することはできなくなる。進行速度が元に戻るまで何年かかるか分からない。数年後かもしれないし数十年後かもしれない。数百年後の可能性だってある」


「時間の速度が元に戻ったら俺はどうなる?」


「文字通り未来へとタイムスリップする」


「ヘビーな話だ・・・」


 翠さんはどこで手に入れたのか引き出しから拳銃を取り出すと、診療台の上に置いた。俺は手に取るとスライドを引いてチャンバーチェック、マガジンを抜いて残段数を確認した。状態不明の武器を手にしたなら、すぐに使えるのかどうかを確認するという、甲賀麟太郎の癖だった。


「私は君の人生を無茶苦茶にした。君には私を殺す権利がある。この他に罪を清算する方法が思いつかなかった」


 俺は薬室に銃弾が装填されていないことを確認すると、拳銃とマガジンを診療台に放り投げた。そんなことは何の意味もない。俺にできることはなく、翠さんを殺してもこのやるせなさが晴れることは決してない。それだけだ。


「翠さんに死なれちゃ困る人がたくさんいる。あんたは巫女だから、軌道都市と地球人類のパイプになるはずだ。八千代もそのつもりだろう」


 翠さんは”ありがとう”と言って拳銃を拾って引き出しへと仕舞った。しかしその表情はまだ曇ったままだ。


「それより俺の時間が元に戻ったときのサポートを頼むよ」


「ええ。準備しておくから。君が帰ってきた日のために・・・」


 彼女から溢れた涙が光の筋を頬に残す。贖罪の意識か、許された安堵か、はたまた別の理由か。


 今となっては昔の話。





 小山はベッドに座って窓の外を見ていた。顔は見えないが首元は青白く血色が悪い。


「今日は調子がいいんだ」


 そう言って窓から俺と瑞穂のいる方へと視線を移す。235ウランでボロボロになった小山はいつその生涯を終えてもおかしくない。


「機械派に力を借りれば、瑞穂のように機械化することも——」


「俺は自分の命の残余に従うよ」


 俺は言葉を無くして黙り込んだ。瑞穂は相変わらずなんて事のない表情のままだ。


「何か欲しいものはあるか」


 小山はしばらく考え込むと、俺と瑞穂を交互に見た。


「気がかりなことが一つ」


「何だ」


「お前たちの関係さ」


「関係って?」


「もう付き合ってるのか?」


 俺はポカンとしてからハッ意識を取り戻す。反射的に瑞穂を見たが、やはり表情に差異はない。


「付き合うも何も俺たちは——」


「人間と機械か?」


「まぁ、最もネックなのは、な・・・」


 小山は瑞穂へとターゲットを変えた。


「葦原はそれでいいのか」


「私は、自分が生きている命だと断言できない。身勝手に航を付き合わせて、結局は人形遊びに過ぎなかったなんてのは私も望まない」


「だったら葦原が生命体だって証明できれば解決だ」


「そんなものどうやって——」


 ガタンッという音と共に瑞穂が立ち上がった。瑞穂が座っていた木製の椅子が倒れて横を向いている。するとそのまま病室を出て行ってしまった。


「なんだアイツ——」


「教会書庫に行ったんだろ。自分が生命体である根拠を探しに」


 俺はしばらく思考を無にしてからおもむろに立ち上がった。


「仕方ない。手伝ってやるか」


 小山は”はぁ”と大きく息を吐く。


「意味あるのかね」


「お前が言い出したんじゃないか・・・」


「そうなんだけどさ」


 病室の扉に手をかける俺に、小山は小さな声で呟いた。それは”好き”の正体に気が付いた小山らしい言葉だった。


「湧き出る感情を証明するためにお互いが働きかける。その行動そのものがお前たちの感情の正体と望みを何より表しているってのに、今さ、なんら書庫に行って意味あんのかねって話さ」

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