第31話 オートポイエーシス

 教会書庫には瑞穂を除いて他に誰もいなかった。枢軸教会アクシズはしばらくの間、講義を半日にすると決定し、信徒は大きく変化した日常を受けいれるのに忙しく、呑気に本を読んでいられないのだ。

 瑞穂は既に大量の書籍を机上に置いて物凄い勢いでページをめくっていた。


「生命の本質に言及した本を集めたの。きっと過去にも、どこからが生命なのかを線引きしようと考えた人たちがいたはず」


 いつも二人して模擬ナイフで斬り合っていたからか、回し車で走るハムスターのように本をめくり続ける瑞穂の姿が微笑ましい。俺は隣に座り、適当な一冊を手に取って開いた。何冊かを適当に目を通して、重要箇所をノートへまとめる。目ぼしい理論が見つかればそれに対する反論も探した。そして何度も精査し、また新しい理論に対する反論、精査の繰り返し。気が付けば日は既に落ち、没頭し続けて六時間以上が経っていた。


 そして明くる日も、そのまた明くる日も同じことを続けた。二人で何かを成し遂げようとすること、いや、ただ二人でいる時間がそのものが尊いものなんだと気が付く。だが俺たち二人はそれを口にしなかった。俺たち二人が普通の人間だったなら、素直な感情を伝えるだけでよかったのかもしれない。だが事実、瑞穂は機械で俺は脳の半分を失っている。それに対して悲観はしていない。俺たちは俺たちなりのやり方でやればいい。





「討議をしましょう」


 瑞穂は手元の資料をトントンと揃えながら意気揚々と発すると、すぐさま脱力してのびをした。


「なんていうのは大袈裟。ちょっとした思考実験」


 俺は絶えずコーヒーを飲んでいたからか、ギラついた思考が嗜虐性をつついた。近接格闘では丸め込まれっぱなしだったから、討論で説き伏せてみるのも一興だろう。


「いいぜ。議題は?」


「勿論、生命とは何か」


 瑞穂はまとめた資料を一枚めくると、立ち上がって机の周りをくるくると歩き始めた。相変わらず書庫には俺たちしかいない。


「まずはザックリとした生命について話しましょう。航は生命の本質と何だと思う」


「感覚になるが・・・生殖と進化かな」


「うん、やっぱりそうよね。だから私はまず、進化と生殖が本当に生命の本質なのかを調べてみた。理由は分かるでしょ」


 瑞穂は自身の下腹部に視線を送った。今やサイバネティクスである彼女には当然、生殖機能がない。進化については議論が必要だろう。身体変化の自己完結が進化だというのなら、それも今の瑞穂にはない。


「教区長も言ってたけど、生命は核と壁で発展した。生命を成す基本的な核と壁とは細胞。そんな細胞の化学反応をコンピューター上でシミュレーションしたオートポイエーシスという論文を見つけた。元々は生命活動による化学反応の記述は可能かを調べるためのものだったみたい。シミュレーションによると、細胞は化学物質の変換と崩壊、それら化学反応のプロセスが一つのネットワークとして組織化、つまりは単位体として定義されたもののことらしいわ。そしてそれらは変換と崩壊によって常にネットワークをつくりかえながらも維持している状態、単純に言うと代謝のことね」


「代謝か——機械には難しい能力だな」


「それよりも重要なのは、論文にはオートポイエーシスと生命システムは等価と記されていたことよ。逆を返せば、全ての生命システムはオートポイエーシスということ。代謝する細胞は自律性、個体性、単体性へと帰結していく。自律性とは外部に従属することのない自己維持。個体性とはネットワークが分割することができない同一性の維持。単体性とはそれらネットワークの境界を自己決定することの統一性の維持」


「つまり俺は常に変化している自己維持のローカルネットワークであり、俺と瑞穂は外部の入出力の関係であるという境界線を自身で定められるから生命というわけだ」


「いいえまだよ。なぜならオートポイエティック・システムは環境に依存する。例えば航は一つのオートポイエティック・システムだけど、それだけが航を構成しているだけじゃない。この書庫、教会という組織、そして人間関係という環境にオートポイエティック・システムは依存する。全く同じ存在の航が二人いたとして、教会と機械派に別れて生活してみれば個体差が生まれる。これが個性の発生」


「何が言いたい?」


「生殖や進化が環境依存である以上これらは生命の本質ではなく、オートポイエーシスつまりは生命システムが環境によって生じた個体差による副産物と考える方が正しい。つまりは生殖や進化がなくても生命であるということ」


 俺は脳から錆びたネジがボロボロと落ちていくような衝撃を受けた。この瞬間から生殖と進化は生命の本質ではなくなった。つまりは瑞穂が生命であるという可能性を帯び始めていることを指している。


「すると何だ。討議の基礎をオートポイエーシスにしちまえば何が生命だ何が生命でないか、ある程度答えを出せるのか」


「そうよ。ここまでの話をまとめると、私に進化と生殖の機能はないけど、自律性と個体性、単体性がある以上、葦原瑞穂は生命システムというところまで漕ぎつけた。議題はこのを消すことができるかに絞られる」


 机の周りを休むことなく周りながら語る瑞穂から、今度はどんな話が飛び出してくるのかと、俺は興味津津にそのときを待った。教会の講義よりもずっと楽しい。


「航にとって、私の生命システムの特徴をどこまで削れば生命でなくなるのかという必要性、逆に何があれば私という生命たりえるのかという十分性が逸脱していなければ、私は生命になるわ」


「まて。なぜそれは瑞穂ではなく俺の主観になる?」


「オートポイエーシスが自己維持を目指したローカルのネットワークである以上、主観的世界とはただ自己維持のために外部からの情報を得、拒絶し、改変していることになる。だけどその拒絶や改変とは客観的見るからそう見えるのであって、主観的世界ではそういた入出力の定義はできない。つまり錯覚でも見える人には見えるということ」


 つまり瑞穂はこう言いたい。生命とはオートポイエーシスであり、俺にとってサイバネティクス生命体である瑞穂が瑞穂である必要性と十分性を満たしているなら、それは錯覚だとしても問題ないということだ。たとえそれが錯覚だとしても、それが錯覚かどうかを判断するのは俺という主観ではなく、第三者というか客観による。だがオートポイエーシスが主観を軸にしているのなら、錯覚かどうかを区別する必要はないと。


「生命とは単に自己維持のために世界を見たいように見る。間違った解釈だとしても、自己維持に役に立つのであれば正解ってこと。まさに航が軌道都市で言った通りの理想的なパラレルワールド」


 机の周りを歩き続けていた瑞穂が俺が座る椅子へと距離を詰めた。人を模した手が俺の手の甲へと重ねられる。感じるはずのない人の匂いがしたような気がした。手から彼女の体温が伝わるような気がした。


「だから航。あなたが見たいように私を見ればいい。それが錯覚でもいいの。私はもう——錯覚しているみたいだから」





 見慣れた尖塔群の背後に薄暮の空が重なる。教区内の公園にある古ベンチに座り、黄昏時を待ち続ける。隣に座る瑞穂が俺の肩に頭を寄せる。二人に間はなく、手は重ねて膝の上だ。


「どんな気分」


 できるだけふざけた答えを探してから目を閉じる瑞穂へ返す。


「重いな」


 瑞穂は”ばか”と返した。それからしばらくの沈黙。心地よい間が流れ、沈む日の光が俺たちの影を象る。


「伝えないといけないことがあるんだ」


 俺はついに切り出した。この時間はあっという間に終わってしまうことを。もうすぐそれが起きることを。


 手を握る瑞穂の手に力が入る。俺の手は既に汗にまみれていたが瑞穂は離そうとしなかった。けどそれは悲しみを込めた握りではなかった。


「知ってる。翠さんとの話が聞こえてたから」


 そう言って優しく微笑んだ。


「地獄耳だなぁ」


「そりゃあサイバネティクス生命体なんだから。聴力も人並み以上」


 一言二言を交わして沈黙。その繰り返しだけだというのに、溶けそな喜びが俺の体を締め上げる。雲の流れが早まり始めた。俺が減速するということは、相対的に他の全てが速くなるということだ。俺と瑞穂に残された時間は残り少ない。唐突に、断頭台の上に立たされたような恐怖をおぼえる。別に死ぬわけじゃない。なのに恐怖は大きくなる一方で。


「航、怖いの?」


「え——どうして」


「震えてるから・・・」


 瑞穂の手を握る俺の手は言い訳のしようもないほど震えていた。情けなさのあまり苦笑いで誤魔化そうとするも、体は正直で震えは収まらない。


「なんでかなぁ。死ぬわけじゃないのに」


 空はゆっくりと加速している。風も少し強くなった気がした。確実に近づいている時間の隔たりに耐えきれず、俺の肩にもたれかかる瑞穂の頭に額を寄せた。

 気が付くと俺は涙していた。まだこの時空間にいたいと強く願った。瑞穂と一緒に過ごせたであろう時間、交わすはずだった言葉たち。それらは全てこの世界に秘められたままになることとなった。それがどうしようもなく悔しくて——

 俺は泣き顔を見られることも躊躇わず瑞穂の肩を掴んだ。長いまつ毛が触れられそうなほどに近い。

 

「瑞穂——」


 言葉はついに最後まで語られなかった。震えた声はこの世界へと秘められたまま、無常にも景色は加速し始める。


 気が付けばそこはもう教区内の公園ではなかった。地鳴りと共に瞬発の雨が降ってはやみ、一瞬の朝、一瞬の夜。木陰は幾度となく西から東へと地面を往復し、残像が周囲を横切る。芽吹いた花がつかの間を経て枯れると、大樹の幹が苔むした。太い木の幹を他の木が囲むと、木はやがて電柱となった。電柱は電線を伸ばすと街灯の実をつけ、電光の掲示板を、信号を、カメラを配置する。平行する鉄柱のインターレースがコンクリートの衣を羽織り、摩天楼の嵐、鉄道の連接、立体の迷路の膨張が無限に繰り返されていく。光速に展開されてくその景色に俺は圧倒され、初めて大聖堂に入ったときのように上方を眺め続けた。やがて、最後のピースのように陸橋がゆっくり目前で完成すると、世界は元の速度を取り戻した。


 鈴虫の音。柔らかな風。鳥が短く鳴いて飛び立つ。公園はまるで違う匂いを発していた。舗装された街路と手入れの行き届いた草花たち。小高い丘の上にあるこの公園からは、コロニアルのストレート屋根が碁盤の目のように等間隔に配列された、閑静な住宅街が見渡せる。ベンチに座ったままだった俺は緊張を吐き出すようにして背もたれに頭をのせて上空を見る。木の葉の天蓋から差す木漏れ日の優しさはいつの時代も変わらなかった。

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