第11話 報告

 久しぶりに訪れた下町は、どうしてか以前と比べて陽気に見えた。相変わらず昼間でも薬物中毒者が路上で支離滅裂な言葉を喚き散らし、すえた臭いが裏道から漂う。人の原型から遠のいた生命工学術を施術された者たちが石の街並みの景観と同化し、曲がり角の先へと消えていく。豚の頭をした肉屋の店主が、開店に向けて木箱に詰めた包丁類を棚へと並べている。遠くでは、いつか声をかけられたコウモリの街娼がせっせと誘惑に励んでいた。相手の男は爬虫類のようにキメの粗い肌、体温をかんじさせない色をしていて、長面の口先からは蛇のように舌先が二股に分かれてチロチロと伸びている。何かの薬品を加熱した黒い煙が煙突から躍り出て、雲の白い膨らみを目指して昇り、薬を抱いてクリニックの扉を叩く施術希望者たちを笑う。爬虫類の背中を筋骨隆々の上半身をした男が通り過ぎた。ゴリラか熊かの特徴を体に刻まれたのだろう。職業はボディガードといったところか。この街で用心棒をしていれば食いっぱぐれることはない。街はいつも用心棒が不足している。


 遠くには教会のアプス型天井と尖頭群が隆起していて、中年の男が、羨望の眼差しでそれを見ると、その場に跪いて祈った。下町に身を堕とした己を救ってほしいと言わんばかりに、背筋がのびた祈りだ。少年だった彼もかつては教会の敬虔な信徒だったのかもしれない。いや、彼だけではない。この街の住人の誰しもが輝く少年、少女の時代があった。今はもう思い出すことしかできず、薄汚れた部屋の中で泣くことしかできなくなってしまったが、それでも彼らは生きている。青臭い希望は歳を重ねて腐臭漂う淀みとなり、酩酊し、失い、しかしそれが生きることだと受け入れ、そんなみじめな己の人生を賛美して。あまりに弱く無力な彼らは、ときには快楽に溺れてしまう。恐ろしい明日に怯え、スピードの高揚で脳をデトックスし、娼婦の胸の温もりに安堵して、そうしてようやく震えながら立ち上がる。世間はそんな彼らを無視して、大人なれば背負うハメになる"責任"という言葉で無理矢理にでも社会に適応させようとしたこともあった。だから良き社会人にとって俺たちは、適応できなかったはぐれ者。社会に適応するための機能を身につけることがてきなかった者たち。だからあの中年は祈らずにはいられない。機能を失った、あるいは持って生まれなかった俺たちに残ったものは、のたうち回ることしかできない時間だけなのだから。





 クリニックの扉にクローズの文字を引っ掛けると、翠さんは俺の向かいの椅子へと腰かけた。クロスの敷かれていない木製のテーブルの上には以前貰ったものと同じ、薬物で傷ついた身体を修復する注射器が一つ。スピードはもうない。薬から足を洗いつつある俺を祝福してくれるのかと思いきや、彼女の表情は疑惑の念に取り憑かれていた。


「なんだかとても危ない気がする」


 騎士団員になれるかもしれないと俺が溢したことが仇になった。当初はお祝いムードだったというのに、詳細を根掘り葉掘り聞かれて答えていくうちにこの雰囲気だ。


「やっぱりそうかなぁ」


 間の抜けた返事に翠さんは"真面目に答えて"と口調を強くした。俺はやりきれなくなってグラスの水を一口含むと緊張に渇いた喉を濡らしてみた。翠さんは内緒の話をするかのように机に少しだけ身を乗り出す。


「これは噂、未調査地区へ出た騎士は誰一人として戻っていないって」


「そんな馬鹿な。何が原因で」


「わからないけど・・・」


 翠さんは自信を失っておずおずと頭が落ちていく。耳にかけていた前髪がするりと流れてぶら下がった。


「なら試験に同行する騎士団はどうなんだ。戻ってこなかった団員がいたとして、他の団員がそれを知らないわけがない。戻ってこれないと分かっている場所に命令だからって従うかよ」


「それが航くんたちに目をつけた理由と何か関係があるとか」


 その先を想像してぞっとした。枢軸教会アクシズが俺たちを捨て駒にするつもりだとして、それに気がついた俺にいったい何ができる。この試験を断ったところで、行き着く先は下町に身を貶めるか、下手をすれば下町にいることすらも許されないかもしれなくなるだけだ。教会が求める振り付けを踊る道化になる他に選択肢などない。


「俺たちはこのチャンスをものにしたい。多少の危険は覚悟のうえさ」


 翠さんは頑固者と俺を罵って、大きなため息を吐くと項垂れた。眼鏡が蝋燭の灯りに反射して、目は奥へと隠れる。影が大きく引き伸ばされて、木の壁へと映った。やがて諦めたかのようにスッと鼻から息を吸うと、机の上に置いたままの注射器を俺の方へと押し出す。


「注射はしっかりと打っておいて。せっかく薬を断ったんだから、体も元に戻しておきたいでしょ」


 俺はそれを受け取ると服の内ポケットへとしまった。

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