第14話 知らない悪夢

 視界を遮る濃霧に荒野が浮かんでいる。湿った土が足裏に吸い付いて重い。もう見慣れた何度目かの悪夢に、今や落ち着きすら感じていた。

 空は見えないが、ほのかに届く灰の光から朝方だと察する。灰の光は穿たれた大穴に溜まった泥水に反射して、辺りに散らばる無数の死体をぼんやりと照らす。死体は目を閉じることを忘れ、瞳は隠された空の彼方を探していた。


 敵部隊が撤退し終えた静寂に伏した戦場は、童話的な様相に満ちていた。

 

 すぐ隣から人の気配。妙齢から少しだけ遠のいた女性が、足をとられまいと大きく踏み出していた。和を模した服に、セミロングの髪が赤いリボンでまとめられて、濃く深い瞳は、優しさと厳かさの二面性を控えている。今さらながら自身が彼女を守るようにして歩いていたことに気がつく。彼女は血に染まり、四肢が欠損した死体を見ると口を結んで目を背けた。そして黙々と歩き続ける。飛び跳ねた泥をまとう、パーマをあてた髪のように破損した鉄条網を足と手で上下に開くと、彼女の背を押して中へと促す。戦場は悪い魔女が住んでいる荒れ地のようで、俺たちはその魔女から逃げ出すおとぎ話の登場人物のよう。おとぎの国へと迷い込んでしまったような、現実離れした戦場の光景は退廃的な美しさすらあった。

 鉄条網の先には、土嚢袋で脚を固められた大型で曲射式の砲が打ち捨てられていた。辺りには砲から排出された、大人の背丈を優に越える巨大で大量の薬莢が無造作に転がっている。女性は転がる薬莢に手を添えて、濃霧に佇む砲塔を見上げた。


「罠が仕掛けられているかもしれません。不用意に触れない方がよろしいかと」


 言葉は俺自身から発せられていた。女性は兵器から離れると触れた手を胸元で握る。


「私は忘れません。人の、尊厳と生を正面から否定したこの恐ろしい風景を」


 俺はその言葉に同意の意を示したが、内心は何も感じていなかった。感情的な彼女の言葉も、戦場で無残に死んだ人も、この戦争を起こした者も、全て人間が内包する側面であることを知っていたから。運命も悲劇もそこには無い。人は他の動物とは違う特殊な存在ではないし、当前だが機械でもない。移ろいやすく危険で、不鮮明で論理的になりきれない感情的な存在。それが人の正体だ。だから彼女のその言葉も、昂る感情から生まれた移ろいやすく、脆い決意の表明でしかなかった。


「ここから離れないと」


 彼女の決意をよそに戦場の先へと促す。

 複雑に変容する世界は人々の摩擦を起こし、そうして各国が取った手段が物理的な暴力というのは、過去に何度も起きていると歴史が知っている。彼女は、人類が何をどう間違えたのか、何が原因だったのかを今も省みているのだろう。その顔にまだ苦労のシワは刻まれていない。一国を背負うにはあまりにも若く、死もまだ先でいいはずだ。だが複雑に絡み合った事情が、彼女の生を拒絶しようと暗躍し、こうして追われている。急いで転倒してしまわないように彼女の歩く速さに合わせていると、足下に注意をはらう眼が俺へと向いた。


麟太郎りんたろう、あなただけが頼りです。専属警護であるあなただけが。私はまだ、死ぬわけにはいきません」


 と、バチリという音と頭痛。視界がザラつき、三半規管が酒に酔ったかのように平衡感覚を消し去る。堪らず膝と手を湿った地面につくと、手は沼にはまるかのように土に沈んだ。死を意識し、走馬灯が何も知らずに映像を見せ始める。生きていた、幸せだった頃の記憶の再生。だがその記憶は見たこともない幾何学的光景の数々で。


 少年時代に飛び込んだ、工場の端に無造作に放置された何かの鉄柱。錆びたボルトを指でなぞった夏の夕暮れ。

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