第17話 好意の正体
黎明。先塔群の合間を縫う光の帯が地表と水平に並ぶ。下町の外は、あいも変わらず、すえた臭いに囲われていた。石畳の表面の夜露が光に導かれて立ち昇り、閑散とした空へと消える。人通りはなく、夜の店を閉めて後片付けに勤しむ施術者たちがまばらにいるだけだ。機械派ユニオンのアジトは下町の寂れたショットバーのような小さな建物の中にある。下町の遠端に位置するここからは、遥か遠くに
教会の襲撃を退けた後、瑞穂はまだ調整が完璧ではないと、翠さんと手術室へ戻った。富士は未調査地区に赴くべく準備をしている。手持ち無沙汰の俺は、ドラッグの常習者のように意味もなく外を徘徊するしかなく、足下の石を爪先で弄んでいた。
機械派のアジトの正面を通る道の街頭、その角に地面を見下ろす小山の姿を見つけた。近寄ると、その足下には男の死体が転がっていた。危ないものに手を出したか、強盗に命ごと奪われたか、ここでは見慣れた光景だ。
「無事だったのか」
小山は足下の死体を見つめたまま頷いた。枢軸教会の標的ではなかったのか、小山はさきの襲撃を受けなかったらしい。小山は未調査地区で気絶した俺を、教会を追尾していた富士と翠さんに引き合わせたらしい。教会の若い騎士は既に事切れていたという。
「こいつは俺の取り引き相手だったんだ」
小山が愛するポルノの流通ルート。その男は死体となって町の隅に転がっていた。死体の年は俺たちとそう変わらなかった。
「こいつも俺と同じ趣味だった。写真だけで我慢しておけばよかったのに、闇クリニックの医者の娘に手を出して報復を受けたらしい」
小山は胸のポケットからポルノの写真を取り出した。汗と泥で汚れ、もう何が写っていたのかは分からない。
「俺もこいつも同年代の少女が好きだった。そこに違いなどない。だがここで死んだこいつと、まだ生きている俺の違いはなんだ。俺もコイツも、ただ好きなだけだったんだ。”好意“とは一体何なのか、お前が体力錬磨に必要な要素を教会書庫で調べていたとき、俺も好意が何なのか調べたんだ。ずっと、自分の好きという感情に疑問があったんだろうな。好意とは俺たちが自然的に身に付けた機能なんだって。俺もコイツも好意自体には何の違いもない。だがコイツは死んで、俺は生きている」
俺は小山に並んで死体へと視線を落とした。俺はその答えを知っていた。
「児童への過剰な性衝動は社会的に嫌悪されやすい。なのにコイツは手を出してしまった。だからリンチにされたんだろうさ」
好きとは自然的なものだ。そして、今ここで死んでいる犯罪者と小山の違いは、手を出したかどうかだった。秩序が乱れないように、法律や常識という形で社会的責任を個人に要求することによってその暴走を止めている。たとえ少女が好きだとしても、一線を越えないことと強姦することでは決定的な違いがある。この死体は、少女が好きだという理由を“だから”で原因と結果を結びつけた。これは己の好きという感情が社会的にどう処理されるべきかを無視した致命的な間違いに他ならない。
小山は目を細めて口元を歪めた。俺の言葉を何度も反芻しているかのように、喉元が揺れ動く。
「俺はコイツとは違うと否定することができない。俺はきっとこの死体を見ていなければ、いつか一線を越えていたと思う」
悔恨を搾るがごとく、小山は懺悔の言葉を並べた。今の小山には自身の狂った性衝動を客観視してしまったかのような冷静さがあった。
この社会いおいて彼はありふれた性犯罪者予備軍に過ぎなかった。それが現実だった。のたれ死んだ死体はいつか辿る小山慎平の姿であり、この風景は好きという自然に備えた感情が、後から構築された社会というシステムに対応できなかった人間の末路だ。
“好意”とはあまりに誤認しやすい。親の好意、教師の好意、恋人同士の好意、そして性犯罪者の好意。それら好意は、元を辿ればきっと同じものだ。しかし、世界に社会が存在し、責任と立場が存在すると意味が変わる。親が幼い我が子を好きだというのと、この死体が小さな子が好きだという意味は全く違う。そんな“好き”という多くの要素を同時に抱き込んでしまう曖昧で貧弱、不鮮明なものが小山慎平が大事に育てた等身大の愛情だった。
小山は手に持ったポルノをマッチで焼き払った。葬送の花のように、灰が死体の衣服へと舞い降りる。
「俺の余命はそう長くないらしい。岸部と違って俺に耐性はなかった。235ウランで体組織はズタズタだってさ」
小山の命のように灰は風と共に消えた。
世界は複雑だ。小山の“好意”は自然的なものだが、この自然は“好意”という単一では社会という人工物に対してあまりに不適合だ。この死体は、社会が個人に追求するものを同時に実行しなくてはならなかった。そして小山は、これからこの“好意”という自然的なものと社会という人工的なものをすり合わせなくてはならない。小山は黎明に舞う灰が、町の通路の先へと吸い込まれていく様を見つめ続けた。死体に向いていた目が、俺へと移る。その表情は、どこか諦念にも似ていて、眉尻を落とした笑みを携えている。
「でもさ、やっぱり俺は彼女たちが好きだ。瞬間が、とても美しいんだ」
その笑顔に、かつての邪な陰りは薄れていた。額縁に収められた絵画を見つめるかのように、小山は世界を眺めている。きっとその額縁には、時間が描かれているのだろう。どれだけ愚かしくても、ただ生きること。それだけを謳歌している彼女たちの少女の瞬間。
その時間が。
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