第2話 下町
下町の空は、暗い部屋の机上に置いた空きグラスと同じ色をしている。湿った石畳から立ち上る蒸気が何かの肉を焼いた臭いと、呑んだくれの吐息のアルコールと混じり、そんな人の群れの猥雑とした空気でむせ返りそうになる。干し肉をぶら下げた露店の肉屋では、豚の頭をした店主が商品を切り分けていた。生まれたときからその姿だったんじゃないだろうかと思えるほど、体温を感じない青白い肌と腹回りの脂肪が人と獣の境界線を曖昧にする。店主は木製の骨格に薄汚れた絹で棚を覆い、肉を黙々と切り分けていた。畜産を営む人間は牧畜に見た目を寄せていく。家畜の警戒心を解いて畜産の品質を上げるためらしい。家畜は最期、自分と同じ外見をした仲間に捌かれるときに何を思うのだろう。店主はボロ布を身に着けていて、とても儲かっているようには見えないのだが、この辺りでは味がいいと評判だ。酒場のチープな扉から出てきた男が、もつれた足取りであの肉屋まで歩いていく姿を何度も見た。
「お兄さん、遊んでいかない」
若い女の、俺より年上の声で呼び止められた。執刀後の声、街娼だ。けばけばしく美しいブロンドは長く、体の前へと流れ落ち、髪の間から覗く、白く、大きすぎず小さすぎない乳房の造形は完ぺきで、蜘蛛のように長い手足は淫靡。背からのびるコウモリのような羽は、まさにコウモリをもとに生命工学術が可能にした奇跡であり、かの伝承にある男の精を吸い取る悪魔に酷似していた。揺れる尾が、何かを握るときを今かと待ってユラユラと、それを見ているとたまらなくなるのだが、俺は手のひらを向けて遮った。
「身入りが少なくてね」
「あら。この先は
肉付きのいい肢体が月明かりに照らされて、白い肌が剥き出しになる。ただ男の欲を掻き立てるためだけに施された手術だ。俺は肩をすくめて見せた。
「また今度行くよ」
街娼はコウモリの羽をバサリとはためかせ「約束よ」と顔の前で小さく手を振った。街娼の体の完ぺきな造形美は、クリニックの手術の賜物だ。二十歳を越えると、生命工学術を駆使した手術を体に施すことを許される。
カエルのような手と皮膚を纏った踊り子が、酒場の台上で踊っている。長時間、水を飲まなくても踊っていられるように。植物の葉を纏い、髪がツルのようになった街の清掃員は貧乏人が多い。昼に光合成をして、そのエネルギーと水のみで生活するためだ。成人していない俺はまだ人間の生まれたままの姿を保っているが、不便で仕方がない。生命の神秘、その先へと憧れて。
最後の一粒である
熱狂する夜の街。スピードが横行し、そのために危険な橋を渡り、蝋燭の光が道ゆく廃人の汗に煌く。汚れた仕事に手を染める青年と、身体を売って稼いだ金で美を得る少女。その美しい体の背景には、反吐のしぶきがよく似合う。
体中の毛穴が開いた。汗が体毛を伝い、ぴりぴりとした鋭敏さが腕から体幹に向かってじんわりと広がっていく。
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