第3話 クリニック

 人の姿をやめた呑んだくれ共でひしめきあっている酒場を横切り、露店の臭いも遠くへと消える裏道へと入っていく。路上に布を広げて、メッキ処理された髪飾りや琥珀色の石をはめ込んだ指輪を並べる商人を尻目に、クリニックの看板を見つける。木目の粗い看板には”連城れんじょうクリニック”の文字が僅かに確認できた。看板は指をひかっければボロボロと崩れ落ちそうなほどに腐食している。薄暗く、傍目には営業しているのか判別できない。

 施錠されていないことを俺は知っていたからためらいなく扉を開けた。クリニックの中も外観とそう変わらないボロだ。だが商いをするために必要な道具はしっかりと揃えられている。消毒用アルコールの臭いが鼻をつく。俺がここに来る前に誰かがここで施術されたのだろう。


「翠さん、ドラッグのストックがなくなった」 


 店の奥の薄い紺色の布で仕切られた事務机から、億劫そうに無気力な表情を携えた女性が現れる。黒のボブカットの前髪を7:3に分けて、深い青みがかった瞳が眼鏡の奥に見える。赤ぶちめがねのレンズは厚く、重みで少しズレていた。白いシャツには縦の薄い灰色のストライプが二本あり、大腿部は薄紫のレギンスがぴっちりと覆っている。


「航くん、ここは生命工学クリニックなのよ。私を売人プッシャー仕入屋ハスラーか何かと勘違いしていないかな」


 翠さんは子どもを叱るように腰へ手を当てると、じっとりと俺をめた。しかしため息を吐くと、諦めたかのように陶器に茶葉を入れた。マッチでアルコールランプに火をつけると、水の入った試験管めいたガラス瓶を火にかざす。その趣味はどうかと思うのだが、取引相手の嗜好を批判して気分を損なうのは憚られる。


「手術は必ず翠さんのところで受けるからさ。頼むよ」


 俺は背もたれのない木製の三脚の簡素な椅子に座って、クロスがかけられていない机に肘を置いた。翠さんはこの下町で生命工学術の執刀や施術を生業としている。こんな街で店を開くのだから、非合法めいたことや、闇市場ブラックマーケットで取引をしているのは間違いないだろう。俺用にとドラッグを売ってくれるのも、闇市で取引したついでだと言っているが、本当かどうか怪しいところだ。


「あんまり彼女を悲しませることはしない方が」


「彼女って誰さ」


 翠さんは名前を思い出すように天井をあおいで人差し指を顎に当てた。髪がはらりと落ちて、小さな耳たぶが露わになる。どこをどう見ても、彼女は自身に生命工学手術を施していない。


「瑞穂ちゃんだっけ。航くん、酔ってポロリとその名前を言ったから」


 意地悪そうにほくそ笑む翠さんに反して、俺の表情は死んでいった。葦原瑞穂あしはらみずほの名前が遂に下町まで轟いたのかと驚愕したが、どうやら杞憂に終わりそうだ。


「彼女じゃない」


「随分楽しそうに話してたけど」


 湯気を立て始めた試験管のお湯を茶葉の入った陶器に注ぐ。桃色の花が装飾されたカップに注がれて、緑茶の香りが立ち上る。翠さんはカップを俺が肘をかけている机に置いた。カップの隣には薄ピンク色のヘキサゴン形の錠剤もある。俺は緑茶と一緒にヘキサゴンを飲み干した。スピードだ。翠さんは俺の向かいに腰掛けた。


「そんなに酷いの。悪夢は・・・」


 物憂げに、俺の瞳をのぞき込む。目線を逸らすことを返答に、もう一度緑茶を口へと含む。


「翠さんのせいじゃないさ」


 俺と翠さんの関係は、俺が教会の訓練で頭蓋骨骨折の重傷を負ってからだ。俺は恵まれた経済環境にあったわけでもなかったから、手術を受けられるクリニックは絞られていた。そのとき、格安で手術を請け負ってくれたのが翠さんだった。手術は成功。だがその代償は、連日の悪夢という後遺症を残す結果となった。原因は不明で治療方法もなく、覚醒剤の力に頼ってなんとか理性を保っていられるのが現状だ。だが、悪夢に悩まされているとしても、もし金銭的な事情を言い訳に手術を受けていなければ、脳に深刻な障害を残して、残りの一生をベッドの上で過ごす羽目になっていたのかもしれないのだから、翠さんを責められるわけもない。


「悪夢って、どんなものなの・・・」


「雨・・・埃・・・破けた腹・・・生理的嫌悪感・・・」


 瑞穂とナイフ術の訓練中、頭部を強打する大怪我を負ってから毎晩のように見る悪夢。一言で表すなら苦痛。拷問にかけられているわけでも、何かに追われているわけでもない。気がつくと、ただ雨の中を歩き続けている。身体は重く、足は濡れた土に沈む。あまりの荷重に鬱血し、痺れの縄が肩周りを締め上げる。意識は希薄でも、高いストレスは過酷にも鮮明で、息苦しく、えずきながらも歩み続ける。そんな夢だ。理由も詳細もわからない。ただそのときに感じていたことだけが鮮明に残って朝を迎える。翠さんはおもむろに紺色の布の裏に消えた。やがて一本の注射器を持って出てくると、俺の手に握らせる。注射器に透明な青色の液体が入っていた。


「新しいドラッグかい」


 俺はおどけて見せた。


「その反対。ドラッグで傷んだ内臓を修復してくれる。必ず打つように」

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