三十一

 すももはそう言うと、ブツ子から詩箋と筆を受け取りました。子柳の顔をチラリと見ると、黙ったまま筆を走らせます。


「ほれ。コイツを持っていけ。さすれば、故郷までは一瞬じゃ」


 そこには「賜金還山」と書かれておりました。


「知っておるじゃろ? 金を賜って山へ還る。メシを食ったらとっとと出発せよ」


 在野の隠遁者を朝廷が官吏として招く慣例は昔からよくあるのですが、これを「招隠」と申します。しかしもともとは隠者として自由を謳歌していた者たち、窮屈な宮廷生活になかなかなじめるはずもありません。そこで、招かれたものの退職して故郷に還ることを希望する者には、朝廷から結構な額の資金が下されたのです。今すももがしたためた四文字はまさにこれを具現化する宝貝で、強く願えば瞬時にして故郷の地を踏むことができるという、優れものなのでございます。


 しかし子柳は心に恥じるところが多くあり、その宝貝を受け取ることができません。目の前に並べられた料理も、全てが色あせて見えておりました。


「やれやれじゃな。おぬしの考えは手に取るように分かる。心の中で述べなくてもな。ふん、罪の意識と恥辱に苛まれることが苦しくて、いっそ死にたいと思っておるのじゃろうが」


 顔を真っ赤に染めた子柳は、床に突っ伏して号泣を始めました。


「ねえ、死んだらそれで終わりだよ? 男の子だったら、生きて汚名を雪がないとね。自ら命を絶つことは、責任を取ったように見えるけれど、現実から目を逸らして逃げているだけだよ。自身に罰を与えたいのなら、寿命が尽きるまで生きないとね。だって生きることの方が死ぬことよりずっと辛くて苦しいことだから。その分、楽しいこともたくさんあるの。だから、ねっ?」


「ブツ子さまの言う通り。だいたい君がここで死ねば、いったい誰が先祖のお墓を守るんだろう。いったい誰が母上の菩提を弔うんだろうね。いずれは苔にまみれて、刻んだ碑文も見えなくなってしまうはずだよ。それに、君を生んだ母上も、きっと黄泉で悲しみにくれるに違いない。自殺など親不孝の最たるもの、そんなことも弁えないのならば、もう一度『論語』からやり直した方がいいんじゃないかな」

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