三十四

 その後、一瞬にして故郷へ帰った子柳は、急いで自分の家に向かいました。自宅がまだあるのか、とにかく気がかりだったのです。何せ、母親を楚興義の元に預けてからというもの、ここに住む者は誰一人としていなかったのですから。


 ところがです。子柳の想像はまるっきり良い方向に裏切られました。何と、帰郷した子柳を迎えた我が家は、旅立ったあの日そのままの佇まいを保っていたのです。


 近づいてよくよく検分してみると、家にはまるで傷んだ様子がありません。不思議に思って首をひねっていると、玄関がそっと開かれました。隙間から顔を出したのは一人の少女でした。


 子柳をのぞき見るその顔に、みるみる驚きの色が浮かびます。

 この少女こそ、旅立ちの日に手折った楊を子柳に贈った彼女だったのです。


 子柳は狐につままれたかのよう、驚きを隠すことができませんでしたが、少女に促されるままに懐かしい我が家へ足を踏み入れました。

 そこは何も変わっていませんでした。母親が毎日のように使っていた機織り機、ボロボロになるまで使い込んだ己が勉強机。

 そこにあったのは、かつての日常生活でした。

 貧しいながらも、笑顔とぬくもりのあった日々でした。


 子柳はまるで時間だけがあの頃に巻き戻されたように感じていました。

 変わらぬ自宅と、変わり果ててしまった己。

 比べるほどに、悔恨の思いがチクチクと心の中を突き刺します。


 やがて、二人は向かい合って座りました。子柳は何から話せばいいのやら、頬を染めてもじもじしています。少女も耳まで真っ赤にして、同じように着物の袖を弄くりながら、卓の上に視線を落としておりました。


 子柳は恥じておりました。気の利いた言葉が出てこないこと以上に、少女のことをついさっきまで忘れ去ってしまっていたことを。あの日、楊を渡してくれた、まぶしい笑顔を。長安での日々に流されて、故郷のことを思い出すことがどんどん少なくなったことを。


 恥じ入る子柳の頬の上を、二筋の涙が音もなく滑り落ちました。


 うつむき、鼻をすする子柳の頬に、柔らかな布が当てられました。目を開くと、少女が袖で拭ってくれているのでした。二人は黙ったまま、しばらくの間ずっとそうしておりました。窓から差し込む陽の光が、柔らかなぬくもりで二人を包みます。どれくらいの時が経ったのかまるで分かりません。太陽は西へと傾きました。それに促されるようにして、二人はそっと口を開きました。どちらが先に、というわけでもなく、自然に、ポツリポツリと言葉を交わし始めたのです。


 会話を牽引したのは少女でした。語られたのは、彼女の心の中にずっとしまってあった、大事な大事な思い出話たちでした。


 彼女の昔話の中にいた子柳は、真面目で融通が利かず、いつも本を読んでいる少年でした。興味を惹かれることを見つけると、たちまち夢中になってしまい、周りも見えなくなるくらい入れ込んでしまうこと。友だちや大人たちを何度もヒヤヒヤさせたのに、本人はまるで気づかず楽しそうだったこと。


 子柳はあまりの恥ずかしさにどうにかなってしまいそうでしたが、嬉しそうに語る少女の声を聞いているうちに、だんだん心の中が暖かくなるのを感じました。そして、自分からも少しずつ言葉を紡ぎ出したのです。


 家が隣同士だった二人は、世間でいう幼馴染みでした。少女がおままごとをしたいと言えば、子柳は文人ごっこや家庭教師ごっこをしたいと言い返します。子柳の無言の圧に負けた少女は、毎日学問を教わることになりました。要するに、幼馴染みとして過ごしたとはいっても、子柳が一方的に学問を教え、少女が生徒役を務めるという関係だったのです。子柳にとって少女は非常に勤勉な生徒でした。


 少女の話は尽きません。幼い頃、どんな本を教わったのか、どんな書体を教わったのか。楽しかったお話、難しかったお話。子柳もそれにつられて、笑みをこぼしながら昔話に興じました。


 やがて、子柳の家が傷んでいないのは、少女のおかげだということがわかりました。子柳が長安に旅立ち、母親が楚興義の家に引き取られてから、毎日掃除に訪れていたのです。子柳がいつ帰郷しても大丈夫なように。母親が亡くなった後も変わることなく、ずっと。


 感極まった子柳はお礼を言おうと思いました。しかし、どんなに言葉を並べても、古の聖人や賢人の名言を引用しても、今のおもいを表現できそうに思えません。ただ、溢れる涙だけが、彼の心の裡を物語るだけでした。そんな子柳に、


「お帰りなさい」


 少女はただ一言だけ、そう言葉をかけたのでした。

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