三十五

 子柳が抱いていた諸々の心配事は杞憂に終わりました。故郷の人々は彼のことを一切悪く言うことはなく、よく帰ってきてくれたと口々に喜んでくれたのです。母親の墓参をすませた子柳は、心機一転、この生まれ故郷のために身を粉にして努力することを誓いました。


 子柳は自宅を小さな塾として開き、たくさんの弟子を教育することにしました。すると、村のみならず、会稽一帯からも、教わりたいという人が大勢集まるようになりました。子柳は心を奮い立たせ、生涯を終えるそのときまで、ずっと後進の指導に当たる決意を固めたのです。


 彼の身辺の世話や塾の経営などの雑務は、隣家の少女が一手に引き受けておりました。子柳の学友たちが二人のことをからかう度に、少女は顔を真っ赤に染めて、奥の間へ引っ込んでしまいます。子柳も写し取っていた書の筆画をつい間違えてしまうなど、お互い動揺を隠すことが出来ません。学びに来る弟子たちも、微笑ましい光景に思わず頬が緩むのでした。


 ある日のことでした。子柳が目覚めてみると、その枕元に小さな箱が一つ置かれています。不思議に思って開けてみると、中には扇子が一つ収められていました。慌てて手に取って広げると、正真正銘、あの日、三人の女仙たちからもらった扇子に他なりません。箱の底には一通の手紙が入っていました。そこには、


 路に不平を見れば 刀を抜いてあい助く

 道塗に困窮する者あらば

 嘉肴をもって 其の心身を寛がしむ

 肝胆相照らし 刎頸を誓う朋少なしと雖も

 何ぞ必ずしも 憂うるに暇あらんや

 長安酔仙楼上 詩酒の交わり

 忽として雷電の如くなるも

 爾の胸中に深く留まらんことを祈る

  大唐 翰林供奉 李太白

     工部員外郎 杜子美

     尚書右丞 王摩詰

      名を連ねてここに記す


  と書かれておりました。

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