ある日のことでした。子柳が市場から帰ってくると、いつも出迎えてくれる母の姿が今日に限って見えません。胸騒ぎがした子柳は、慌てて母の自室へ向かいました。すると機織り台に覆い被さるようにして、母が倒れていたのです。顔色は青く、息も絶え絶えなありさまに、子柳は大いに狼狽しました。


 すぐさま医者に診せねば、と思いましたが、あいにくなことに余分なお金はございません。もちろん子柳の孝行ぶりは鳴り響いておりましたので、お代がなくても診てくれる医者はたくさんいたのです。


 しかし子柳はすぐに決断できませんでした。孝心を用いて実益を得てはいけない、心を高潔に保ってこそ本当の知識人だ、と母親からきつく教わっていたからです。


 涙を流す子柳の所へ、たまたま長官の楚興義が供も連れずに訪れて参りました。かの三顧の礼でさえ色あせて見えるほどに、楚興義は何度も子柳のあばら屋に足を運んでいたのです。


 楚興義は母子の苦しむさまに胸を痛めました。何とかこの二人を救いたいと心から思いました。そして子柳の高潔な志に敬意を払い、次のような提案をしたのでございます。


「子柳どの、ご母堂のことはこの私に任せては頂けないでしょうか。拙宅にて療養下されば、きっと容態も快方に向かいましょう。そして、子柳どの。あなたには、ぜひとも長安へ遊学なさっていただきたいのです。私は娘の婿として、どうしても子柳どのをお迎えしたかった。しかし、あなたは会稽で留まるような器ではありません。あなたがかねてから、自分の力を存分に発揮できる場を求めていたことは、誰よりも理解しているつもりです。あなたは中央の政界で、大いに力を振るい、この国に更なる安寧をもたらすべきなのです。その大事のためなら、娘を可愛がる親の心など小事に過ぎません。どうか子柳どの、ご母堂のため、そして国のため、長安へと赴き、官吏登用試験を受けては頂けないでしょうか。私は全力で支援いたします。その大いなる翼を羽ばたかせ、溢れる才気を天下に注いで下さいますよう。不肖この楚興義、そのお手伝いができれば、振り返っては祖先に孝を尽くし、ひいては子孫をさらに輝かせることにもなるのです。子柳どの、どうか、どうか、伏してお願い申し上げます」


 涙を流しながら懇願する楚興義の姿に感極まった子柳は、これまでの非礼を詫びると共に、その恩情に厚く感謝し、楚興義の申し出を慎んで受けることにしたのでございます。


 これぞまさに、


 溢れる才気に限りはないが

 先立つものには常に事欠く


 といったところでございます。

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