十七
子柳がそれを押し戴くと、そこには江南の風景が色鮮やかに活写されておりました。懐かしさのあまり、じっと見入ってしまいます。すると、
「うむ、やはりブツ子の腕は確かよな。ワシも興が乗ってきた。久々に一筆揮毫するか」
すももはそう言うなり、ブツ子の筆をひったくると、一気呵成に書き付けます。
青蓮居士であり 謫仙人
酒屋に隠れて早三十年
わざわざ名を問うこともあるまいて
金粟如来の生まれ変わりがこの私
この「青蓮」とは釈迦の弟子である維摩詰居士を連想した表現になっておりまして、「謫仙人」とは天界を追放された仙人のこと、「金粟如来」とは維摩詰居士の前身とされる仏を指します。
「もう。遠回しでも何でもないじゃない、すももちゃん。ほぼほぼそのまんまなんだけど」
「これくらいはサービスよ。つぎはしびっち、そなたじゃ」
子柳は慌てて「沙比洲」と書き付けました。
「わかりましたよ。空気を読みますから、あたしは」
「ああ、待った。律詩は長いから禁止。それと、湿っぽいのや愚痴っぽいのもな。空気を読むんじゃろ?」
しびっちは唇を突き出しましたが、すももに筆を握らされると、軽快に筆を走らせます。
李白は一斗で 詩を百篇
長安の街なか 居酒屋で夢見心地
皇帝が呼びに来てもなんのその
それがしは酒の仙人でございまする
「ほうほう! しびっちよ、見直したぞ。分かっておるではないか、興趣というヤツが」
上機嫌になったすももは、バシバシとしびっちの背中を叩いて喜んでいます。口をへの字に曲げたまま、しびっちはすもものなすがままでした。
扇子を受け取った子柳は感無量です。乾いたばかりの墨なのに、その目にはにじんで映っていました。
それもそのはず、すももが揮毫した詩は詩仙李太白の「答迦葉司馬問白是何人(迦葉司馬の白は是れ何人ぞと問うに答う)」であり、しびっちが揮毫したのは李太白と双璧を為す高名な詩人、詩聖と崇められる杜甫、字は子美の「飲中八仙歌」の一節だったのですから。
「えへへ、そんなに喜んでもらえるなんて嬉しいよ。ブツ子は微妙だけど、久々に降臨してよかったあ。機会があれば、今度はあたしの別荘に遊びに来てね」
「それはよい。ブツ子の別荘は風光明媚じゃからのう。街の喧騒もよいが、山水に身を抱かれて傾ける酒は何ものにも変え難い趣で溢れておる。フッ……ワシは飲めんけど」
そのあとはお決まりで、四人で飲めや歌えの大騒ぎ。子柳は今夜もうっとりした気持ちのまま、千鳥足で宿へ帰ったのですが、この話はここまでと致します。
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