十六

 それからというもの、子柳は三日に上げず酔仙楼に通うようになりました。宿の主人は困惑顔をしていましたが、子柳が活き活きしているので言葉を挟むことができません。


 子柳が金銭に困っていないのが不思議でもありました。酔仙楼の三階は言わずと知れた高級客の御用達、子柳のような書生が頻繁に通えるところではないのです。


 もしかして借金でも、いやひょっとすると金持ちの令嬢と、などと勘ぐったものの、なかなか尋ねることができませんでした。


 楚興義から預かった大事な身なのは分かっているのですが、見たところ学問にも精を出している様子、仕送りもいち書生には過分な額であったので、とりあえずは静観に徹しようと判断したのでした。


「おお、今日も約束通り来おったな」


 急いで階段を上った子柳を、屈託のない笑顔が出迎えました。こぼれる八重歯が何とも愛くるしい少女、すももです。


 恭しく拱手した子柳ですが、目の前に座っているのはいつもの二人だけではありません。今日は一人増えていたのです。その一人は、亜麻色の髪にやや垂れ目がちな瞳、右目の泣きぼくろが印象的な少女でした。


 緩やかな眉は心をくつろがせ

 穏やかな目元には慈愛を含む


 子柳はその少女に会釈すると、自分にあてがわれた席に着きました。すると、


「実はな。そなたと酌み交わすうちに、ワシらだけで楽しむのは惜しいと思うてな。今日は新たなメンバーを一人用意したのじゃ」


 子柳はすぐさま「面罵」と書き付けます。


 その少女は慌てたようすで両手をばたつかせると、


「あうう。でもでも、よかったの? あたしなんかが来ちゃって。その、たい」


「わったた、それではないとあれほど言い含めたであろう? ワシはすももじゃ、間違えるな、このド天然! 天然が可愛いとか時代遅れじゃ! 春秋戦国時代かっ?!」


「ひどいよう。ちょっと忘れただけじゃない。……えっと、そのう。あ、あたしはね」


 そこにすももが割り込みます。


「よいか、子柳。こやつはな、ブツ子という。そう呼ぶのじゃ、よいな」


「ねえ、やっぱりその名前やめようよ。何だかイヤだよ。本名はだめなの?」


「真名を晒すと面白くなかろう。よいか、そなたはブツ子、ワシはすもも。そしてこやつはしびっちで安定なのじゃ。それで何の問題もない」


「いやちょっと、安定って何ですか」


 子柳はあまりの神々しさに目もくらむばかりでした。二人の女仙と詩酒の遊びができるだけでも幸せなのに、今日はさらにもう一人。子柳の期待がいや増します。


 すももはしびっちの訴えを無言で退けながら、


「ホレ見ろ。こやつは純真なのじゃ。予定通り一発自己紹介でもかますがよい」


「えー。無茶ぶりなのは相変わらずなんだから。わかったよ、もう。ブツ子でいいよ」


 こほん、と一つ咳払いを入れ、子柳の方に向き直ります。


「この二人よりは、少しだけ先輩になります。少しだけね。……こういうのは初めてだから難しいよ。すぱっと言っちゃえばいいのに」


 ブツ子はそうブツブツ言うと、用意していた小箱を開けました。子柳が思わずのぞき込むと、そこには大小さまざまの筆と、絵皿、たくさんの顔料が入っていました。ブツ子はおもむろに顔料を溶くと、扇子を取りだしてさらさらと何やら書き始めました。


「はい。これが自己紹介代わり。よかったら受け取ってね」


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