廃品(3)
ぼくが叔父夫婦に預けられるようになったのは、ぼくが小学校にあがる年だった、と思う。
一番古い記憶がいつ頃のものかはわからない。がらんとした高層マンションの一室で、お手伝いさんが帰ってしまってから、ぼくはひとりで父親の帰りを待っていた。
当時、ぼくは東京に住んでいた。マンションにいくつも空き部屋ができて、親戚からやんわりと転居を勧められても、父親は頑なに動こうとしなかった。ぼくの母親と共に過ごし、母親が眠っている街だからだ、と彼は言った。
東京の立て直し、という気の遠くなるような夢を抱えながら、父親は文字通り休む間もなく働いていた。
父親を待っている時は決まって電子パッドをいじっていた。父親が買い与えてくれたものだ。中に入っているアプリケーションは、小中学校の内容をまとめた学習教材だけだった。
遅く帰った父親に、「いい子で待ってたんだね」と頭を撫でられるのが好きだった。たったそれだけのために、ぼくは父親に与えられた学習教材を、ひとりぼっちで進めた。
ある日、画面を見ていると視界がちかちかとしてきて、胃のあたりに違和感を覚えた。ソファに横になろうとすると、余計に気持ち悪くなった。しばらくじっと目を瞑っていると楽になったけれど、いつの間にか寝付いたその夜は、自分の咳き込む音で目が覚めた。
ひゅうひゅうと喘ぐような呼吸の隙間で、おとうさん、と呼びながら、父親を探した。靴もかばんもない。ただ広い空間があるだけだった。
絶望感に襲われて、咳はますます激しくなった。「何かあったらここに電話しなさい」と端末に連絡先があるのを思い出し、おぼつかない思考の中で通話をかけた。
『こんな夜にどうした? お父さんが帰らなくて寂しくなったか?』
叔父の声は優しかったが、苦しくて声が出なかった。ぼくのただならない様子を察した叔父は、『すぐに行くから待ってな』と言い、そのまま通話を切った。
心細くて泣きそうで、苦しくて、身体をぎゅっと丸めて横になっていた。そのまま気を失っていたぼくを、合鍵を預けられていた叔父が見つけた。
そのまま病院に担ぎ込まれ、吸引のマスクを付けられた。軽い喘息でしょう、という声が、意識の外でぼんやりと聞こえた。
「大丈夫ですか? あの病気とかじゃないですか? この子は東京に住んでいるんです」
叔母がぼくの手をさすりながら、神経質そうに言った。「なんであいつは電話出ないんだよ」と、当たり散らすように叔父が端末を置いた。
一晩だけ病院に泊まって、朝になると叔父の家に寝かされた。咳は収まっていたが、熱がなかなか下がらなかった。
父親には、次の日の昼まで連絡がつかなかった。その日の夜、ぼくの寝ている部屋の隣で、迎えに来た父親と叔父がずっと口論をしていた。
「ハルがどんな気持ちでひとりで待ってるのか、考えたことないのかよ」
「もう赤ん坊じゃないんだから、自分の面倒くらい自分で見れるよ。あの子は利口なんだ」
「万が一のことがあったらどうするんだよ。ひとりで泣きながら寝てたんだぞ。あんなに小さい子が」
「何かあったら知らせるようにとは言ってあるし、シッターだって雇ってる。僕だって仕事があるんだから仕方ないだろ」
「仕事仕事って、子供が心配じゃないのか。今回だって、ずっと連絡つかないで。もしあの子が俺に連絡くれなかったら、義姉さんの時みたいに、」
「やめなよ隣でハル寝てるんだから」叔母の大きな声が重なった。
それから口論は小さくなり、内容は聞き取れなくなった。それから何日かしてだった。「ハル、しばらく叔父さんちで暮らしてみようか」と、ぼくの手を優しく握ったまま、父親が告げた。
ぼくの叔父は、趣味でよく写真を撮っていた。
戸棚の中には、古いカメラや、手のひらより大きなレンズがいくつも並んでいて、多くが埃をかぶっていた。たくさん並んでいるカメラの中で、叔父が使うものは少しだけ。それでも次々と新しいものを戸棚に並べていく叔父に、叔母が小言を言っていたのを覚えている。
叔父は何かとぼくの写真を撮りたがった。ぼくは被写体になるのが好きではなかったが、ぼくがレンズを避けようとするたびに、叔父は露骨に悲しそうな顔をしていた。
ぼくがカメラの操作そのものに興味を示すと、叔父は嬉しげな様子を隠しもせずに、ぼくに色々なことを教えた。カメラの持ち方から、ピントの合わせ方、露光の変え方、レンズの種類と用途。カメラを抱えるのもおぼつかないぼくは、叔父の楽しげな表情に水を差したくなくて、彼の言うことを言われるまま吸収した。
十歳の頃、誕生日プレゼントに叔父がカメラを買ってくれた。子供用の丈夫なトイカメラではなく、プロが使ってもおかしくないような本格的なものだった。
首にかけた時の重さやごつごつとした感触。ぼくは初めての自分だけのカメラが嬉しくて、そして浮かれていた。
「精密機械だから、扱いには気を付けろよ」
カメラをじっと見つめているぼくにそう言って、叔父はぼくを乱暴に抱きかかえた。そのまま脇腹をくすぐられて、逃げようとして悲鳴をあげながら叔父の腕の中でもがいた。
数日後、ぼくは被写体を探して外に出た。手当たり次第にたくさんのものを撮った。一度、「ハルはセンスがいいね。すごく上手い」と叔父に褒められて以来、お世辞だとはわかっていても、ぼくは写真に夢中になっていた。
そんな最中、帰りの道すがら。
「よォ、いいモン持ってんじゃん」と、声がした。
彼らは三人組だった。ぼくと同じクラスだった、二つ年上の子供。問題児として悪名高く、親の権力もある。粒ぞろいのいじめっ子だった。ぼくも目を付けられていたし、廃工場で散々憂き目に遭った。四月から進級で学年が変わるから、彼らともきっと縁を切れる。そう思っていた矢先のことだった。
同年代の中でも小柄なほうだったぼくは、体格の大きい彼らに囲まれ、たちまち退路を塞がれた。
「なあちょっと貸してみろよ。オレらが写真撮ってやるからさあ」
ぼくはカメラを抱えたまま、黙って首を横に振る。ぼく急いでるから、と脇を抜けようとした時、下っ腹を思い切り殴られ、カメラをひったくられた。
痛みに頭がぐらぐらした。吐きそうだったけれど、ぼくはカメラを取り戻そうと手を伸ばす。返してよ、と唇の隙間から息を漏らしながら。
「返してよぉ、だって」
ひとりが大袈裟に繰り返して、下卑た笑いがぼくの上に降り注いだ。フラッシュの光が瞬いて、目が眩む。よろめく足を踏ん張り、ぼくはもう一度「返して」と訴える。ぼくの体が突き飛ばされ、地面の上を転がった。ぱしゃり、とフラッシュの音。それでも立ち上がって、カメラを取り返そうと試みると、ぼくの顔に平手が飛んで、視界がぐらりと揺れた。
頬骨のあたりがひどく痛かった。涙の滲む視界の中、カメラを好き放題にいじっていた手が、不意にそれを落とした。
そこからの映像はまるでスローモーションのようにゆっくり見えた。
カメラはゆっくりと落下していく。地面の上を跳ね、転がっていた石にぶつかる。画面の破片が飛び散り、レンズの一部が割れてばらばらになる。
何も反応することができなかった。ぼくはじっと座り込んでいて、気づくと周りの人影もなくなっていた。
ゆらゆらと立ち上がり、カメラだったものを拾い上げた。画面とレンズの一部だけでなく、接合部が割れている。自分の力では治せそうもなかった。
帰宅したぼくをみて、叔父も叔母もひどく驚いていた。ぼくは顔を上げることができないまま、「ごめんなさい」とすり切れた声で呟いた、
叱られてしまう、と思った。壊してしまった。「扱いには気を付けるんだよ」と釘を刺されていたのに。カメラがそれほど安くないものであることも、知っていた。それでも、ぼくのために買ってくれた彼らの心遣いが、優しさが、ぼくはたまらなく嬉しかった。なのに、応えられなかった。
「大事にしようって思ってたのに」
カメラの部品を抱えていた腕に、力を込める。
「ごめんなさい」
声がかすかに震えを帯びていた。息が、熱かった。
気が付くとぼろぼろと涙がこぼれていた。叔父と叔母が驚いたようにぼくを見つめていた。ごめんなさい、涙を拭うこともできず、ぼくは謝った。
次の瞬間、叔父の大きな腕がぼくを包んだ。しゃくりあげたぼくの頭を、叔父さんが軽く撫でた。父親と似たにおいがした。
「大丈夫だよ」
じんわりと染み入るように、その声は聞こえた。
「怒らない?」
「怒らないさ」
ぼくはその返答に安心して、緊張の糸が切れたせいで、いっそう激しく泣いた。
その後叔父は、ぼくに自分のカメラのひとつをくれた。メモリの中にはたくさんの写真が残っていて、叔父はそのひとつひとつを丁寧に説明した。静物や風景など、ジャンル問わず様々な写真があった。その中には、ぼくの写真もあった。ぼくはあまり笑顔を見せない子供だったけれど、写真の中のぼくの目は幸せそうに細まっていた。叔父は人を撮るのがすごく上手かった。
メモリの中にひとつ、白っぽい花をつけている木の写真があった。遠くからの風景だから、詳細にはわからない。木に葉はついていなくて、その代わりに、白ともピンク色ともつかない花びらで覆われていた。
「これは何?」
ぼくがカメラをのぞくと、叔父は「ああ、これは……」とぼくの手からひったくるようにカメラを取った。
「消し忘れてた。なんてことない、ただの失敗作さ。忘れて」
慌てたような声音。ごめんな、という言葉と共に返されたカメラの中には、もうあの写真は残っていなかった。
失敗作なんて嘘だ。すぐにそうわかったけれど、口にしてはいけないような気がして、そっか、とぼくは言った。
あの花が桜だったとわかるのは、それから少し先の話。
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