廃残(2)

『――だからね、お父さんは年末まで仕事があるんだけど、正月はようやく一区切りするから、一緒に過ごせるよ。今まで一緒にいられなくてすまなかったね。二人で高いところで初日の出でも見ようか』

「……いいよ別に」

『そんなこと言わないで。今年は大切な節目の年なんだ。来年の初日の出はうんと特別なものになるよ。そうだ、あとで招待券をそっちの端末に送っておこう。それじゃあお父さんは仕事に戻るから』

 父親との通話が切れ、ぼくは小さく息をつく。この人との会話はあまり得意ではない。

 小さい時から、仕事で多忙な父親の代わりに、叔父夫婦に預けられながらぼくは育った。

 叔父夫婦は優しく、腫れ物に触るようにぼくを育てた。そしてつい先日、叔母の妊娠がわかると、父親は半ば強引にぼくを引き込んだ。それまで、月に一度会いに来る程度しか会話を交わす時間もなかったのにもかかわらず。

 父親の強引さに違和感を覚えた反面、ぼくはどこかで安堵していた。子供という新しい命が誕生し、聖家族のようになった叔父夫婦の中に、ぼくはきっと馴染めない。自分が異物だという感覚をこれまで以上に感じなくてはならないのは目に見えていた。

 父親の家は東京のはずれにある高層マンションだった。行政関係の人間がまばらにいるくらいで、部屋数に対して人は驚くほど少ない。父親はほとんど帰っていないらしく、モデルルームのような生活感のない家だった。

 研究室との距離が近くなったことで、博士のもとに通いやすくなったことはそれなりの利点だった。大学が冬休みに入ってからというもの、ほとんど博士の研究室に入り浸っている。

 端末をポケットにねじ込み、アスファルトの割れ目をまたぐ。

 一昨日の雪は残っていなかったが、今日はひときわ風が冷たい。か細い風に吹かれて落ち葉が躍る。分厚い雲がすっかり空を覆いつくしているのが、傾いだビルの隙間から覗いた。

 いつもの四角い建物が見える。カードキーを入れ研究室に足を踏み入れるが、明かりが消えている。人の気配もない。おかしいくらいの静謐。

 外出中だったか。中で待っていようとさらに足を踏み入れた時、ドアのほとんどが半開きになっていることに気が付く。――妙だ。

 ぼくははやる気持ちで部屋の中を覗いた。割れた薬剤の瓶から甘ったるいにおいがして、とろりとした液体が水たまりをつくっていた。床を一面に埋め尽くす紙類。誰かの足跡。

 拍動が早くなる。他の部屋も同様に荒らされていた。まるで、誰かが何かを探して片っ端からひっくり返したような。

 何かを言いたいのに声が出ない。

 力の入らない足を無理やり動かして、ぼくは奥の扉へと向かう。扉を開けると、雪崩れ込むように強風が吹き抜けた。ばさばさと音をたてて紙が飛んだ。

 まず目に飛び込んできたのは、横倒しになった二つのマグカップだった。

 白いテーブルのへりから、黒い液体がしたたり落ちている。ガラスのかけらや散らばった紙やファイルで足の踏み場がない。冷蔵庫の中身まで全部漁られたらしく、床の上で赤いゼリーがぐちゃぐちゃになっていた。

 割れた窓から吹き込んでくる風が、凍てつくほどに冷たかった。

「なに、これ……」

 ようやく出た自分の声は、自分でも思ってみなかったほど震えていた。

 キッチンへと近づく。二人分の皿。コーヒーメーカーの中身はまだ温かい。博士は……博士は、どこかにいるのだろうか?

 辺りを見渡すが、人影はどこにもない。

 足を踏み出すたびにガラスの破片の砕ける乾いた音が響く。

 パソコンの電源は入れっぱなしになったままだ。床に膝をつき操作してみるが、強引にログインを試みた痕跡が残っており、すぐには起動できない。

 ぼくは呆然と研究室を眺め歩いた。どの部屋も荒らされ放題で、物という物が床に放り出されている。埃っぽいにおい。床に溜まった薬品の中で、小さな金属片が泡を出しながら溶けている。

 その時、薬品棚の隙間に小さく光が瞬くのが見えた。注意深く探すと、再びちらりと光が現れ、消える。

 どうやら音声ポストイットのようだ。使い捨てのボイスレコーダー。まだ商品化には至っていないが、試作品をもらったのだと博士が言っていた。

 再生ボタンらしきものを押してみる。パステルカラーのピンク色が、一瞬淡い光を放って、音声が再生され始めた。

『……ル、お願いが……ります』

 途切れ途切れの声に注意深く耳を傾ける。かなりノイズが大きい。

『僕のデータを……第二……究室に送り……した、君……手で、守って……最後まで、……を、……』

 博士の声に混ざる雑音は徐々に大きくなっている。

『ミヤの、ところに、……』

 その声を境に、音声は途切れた。『メッセージを削除します』と、先ほどとは打って変わった明瞭な機械音声。

 この部屋の荒らされ方は――強盗か。それとも、警察の乱暴な操作の類か。

 押し入ったのが強盗ならともかく、警察なのだとしたらぼくの身も危うい。生物犯罪法違反。彼の研究に協力していたぼくは紛れもなく共犯者だ。

 その時、大きな足音がして、ぼくは咄嗟に息をひそめた。

「あのガキはまだ見つかってないのか」

 遠くから、しかしはっきりと聞こえた。男の太い声と、砂を踏む足音。だんだんと近づいている。

 物陰に身を隠す。がこん、と消火器が足に当たって、心臓が飛び跳ねたような気がした。息を殺そうとすればするほど、自分の呼吸音が、拍動が、大きく感じる。

「データもすっ飛んでいるし話にならん。本当にここだったのか、樹化病の――」

「地下からの通報ですからね、信憑性はそれほど高くはないですが」

 中年の男のいがらっぽい声と、諭すような女の声。彼らはすぐ近くまで迫ってきている。震える指先を握り込んで、じっと身を縮める。

 ガラスの破片が踏み砕かれる音。

「とにかく証拠を押さえないことには不当逮捕です。あの子かデータか、どちらかを……」

「なあに、ガキさえしょっぴけばいくらでも吐かせるさ。市長直々のお達しなんだ、多少は手荒な真似も許されるだろ」

「過度な暴力は規則違反です」

 女の声に、男が小さく舌をうつ。

「マシンってのは細かくてやだねえ」

「ではこう言い換えましょうか。彼は市長の息子です。怪我を負わせれば心証は良くないでしょうね」

 女の平淡な口調に、どこか違和感を覚える。

 男はその後も何か不満げに呟いていたが、お、という一言と共に言葉を止めた。

「おいボク、いい子だからそこでじっとしてな」

 びくり、と体がこわばった。

「しらばっくれても無駄だぜ」

 ピッ、と小さな電子音。ぼくは目だけで背後を伺う。レモン色のレンズのゴーグル、黒い制服。――市警で間違いないようだ。

 女の首の側面でロゴが光っていた。婦警の方はアンドロイドらしい。

「確認作業を取る。返事がなければイエスだと判断する」

 男は続けて、読み上げるような口調で、ぼくの名前と年齢を告げた。

 どうすればいい。目だけであちこちを見渡しながら、考える。

 沈黙は下りたまま。少しの間の後、男はぼくの所属する大学と学科の名前を告げる。

 唇を閉じたいのに、顎が震えそうだった。

 考えろ。この状況を打破するにはどうすればいい? 目を凝らしながら自分に言い聞かせる。ポケットに入っているのは自分の端末だけ。足元には破れたページと、錆びた消火器。

 ぼくは消火器のピンを抜き、黒いレバーをつかんだ。ちらりと顔を出すと、こちらを見据えていた市警たちと目が合った。

 劣化した消火器が暴発する可能性はいかほどだったか。ぼくは僅かな可能性に賭け、力任せに消火器を放り投げた。重たい金属の塊は弧を描きながら落ち、床と打ち合わさる鈍い音と共に跳ね、強酸の水たまりに転がり込んだ。

 素早く物陰へと引っ込み、耳をふさぐ。

「危なッ――」

 張り裂けるような風圧。市警の上ずった声は、破裂音と煙幕にかき消された。

 流れ込んできた風に、横髪がさらさらと動いていた。低い振動が止むのを待って、立ち上がる。煙幕のせいで視界が危うく、塵を吸い込んで咳き込みそうになった。

 ガラスのない窓に足を引っかけ、外に出た。窓枠に手を添えた拍子に、手のひらが浅く切れたらしい。痛みと共にぬるりとした血がガラスを汚した。

「待てこのっ!」

 外に飛び降りる。もつれそうになる足を無理やり動かしながら、いつかの記憶を頼りに、ぼくは廃墟の中へと走っていく。

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