廃残(3)
力任せに扉を開けると、店はまだ準備中なのか、客は一人もいなかった。
「お客さん? ごめんなさいね、まだ開店は……」
店の奥からミヤが顔を出し、血相を変えたぼくを見て言葉を止める。店まで走りどおしだったぼくは、少し呼吸を整えてから、「博士が……」とようやく口にした。皮膚の表面は冷え切っていたが身体の芯が熱い。激しい拍動に伴って、手のひらの傷がずきずきと痛んだ。
「研究室が……荒れてて、市警が」
肩で呼吸をしながら、口をついて出る言葉は脈絡のないものばかりだ。
ミヤは悲しげに目を落とす。あなたは無事だったのね、と彼女の唇が微かに動いた。
「研究室のアラートが鳴って、あの人とも連絡がつかないからすごく心配だった。……とにかくこっちにいらっしゃい。温かい飲み物を入れてあげる」
促されるままカウンターの奥に入っていく。汗で顔に貼り付く前髪が鬱陶しい。
店の奥は広い居住スペースになっていた。地下にあるだけに室内は薄暗い。リビングとキッチンがひとまとめになった部屋は、研究室のものとどこか造りが似ていたが、それよりもずっと広く感じる。
ミヤは大雑把な手つきでティーポットに茶葉を入れ、ケトルからなみなみとお湯を注いだ。カップに注がれていく紅茶からは、甘く華やかなにおいがした。
「コーヒーが好きだと聞いていたんだけど、豆を切らしてて。ごめんなさいね」
ミヤは眉を寄せて笑った。博士とよく似た優しい笑顔だった。
ことり、とカップが置かれる。一口、飲み物に口をつけると、末端まで緊張しきっていた身体が少しだけほぐれた気がした。
「大変だったでしょう。よくここまで来れたわね」
「……博士が、ミヤさんのところへ、と」
「そう」
言って、ミヤは自分のカップに口をつける。
今日の彼女は昨日のような華美なドレスではなく、首まですっぽりと覆うようなニット地のワンピースを着ていた。
「あの人と会話をしたの?」
「ボイスメモが残っていました」
ノイズでがさついた機械めいた声が、脳裏に蘇ってくる。
彼は無事なのだろうか。
ぼくは研究室で目にしたものと博士との会話を、話せる限りミヤに伝えた。脳が錯乱状態にあるのか、話したいことはたくさんあるのに、言葉が思うように出てこなかった。
「一度、何が起こったのか確認しましょう」
ぼくの話をひととおり聞き終えた後、ミヤがそう言って立ち上がる。「確認ですか」と聞き返したぼくに、ミヤは「いいからついて来て」と背中を向けたまま手招いた。
廊下はさらに暗く、足元灯がなければ視界すら危うい。リビングの奥には寝室が連なっており、そのさらに奥にサーバールームがあった。
研究室にあったものより上等な機材が、無造作にどかどかと積まれている。暖房はついておらず、うっすらと息が白むほど気温が低い。
モニターが壁一面に並べられている。薄暗い部屋の中、蒼白いライトがそこかしこで点滅していた。呆気にとられたぼくをよそに、ミヤはスリープモードのパソコンを一斉にたちあげる。
「監視カメラのデータを見てみましょう」
彼女はそう言って、タッチパネルに手を添えた。モニターに無数の文字列が表示されると同時に、波が伝わるように順番に色が変わっていく。
「監視カメラ?」
そんなものがあったのか。知らぬ間に行動を見られていたとは、あまり気分のいいものではない。
監視カメラは東京のそこかしこに配備されているらしい。外の廃墟ばかりではなく、屋内と思しき薄暗いタイル張りのものもある。ぼんやりとした人影が動くのが見えた。
「そう。オシゴトに必要でね」
画面が暗転し、「NO IMAGE」と中央に白い文字が浮かんだ。
いくつか生きているカメラもあるが、多くが破壊されているようだ。だが、映像データはサーバーの方に同期されているらしい。
画面を操作して時間を遡行させる。一時間ほど遡ったところで何か黒い人影が見え、ミヤはそこで映像を止めた。再生された途端、時間の流れはゆっくりしたものに変わる。
いつもの部屋で博士がコーヒーの準備をしている。音声はないがおそらく鼻歌混じりだろう、機嫌がよさそうだ。同時に、窓に映る影が二つ。ガラスが割れるのと同じくして、窓のほうを向いた博士が、派手な衝撃と共にどさりと崩れ落ちた。
窓の鍵が開かれ、薄汚れたコートを着た男が数人入ってくる。
二人がかりで抱えあげられた博士は、彼らを振りほどき、一度書架へと逃れた。しゃがみ込むような所作。本棚の裏に音声ポストイットが張り付けられ、それと同時にドアが破られた。
博士は右手で脇腹を抑えている。男の一人が詰め寄り、博士の前髪を掴み上げた。博士は彼の腹を蹴り逃れようとしたが、もう一人の男が発砲し、再び倒れ込んだ。
ミヤが表情を曇らせる。
映像はそのまま進んでいく。
彼らは何かを探しているようだ。途端、訪問者はカメラのレンズを目に留め、こちらに銃口を向けた。大きなノイズが入り、画面に何も映らなくなる。
部屋が荒らされていくと同時に、監視カメラは見つけ次第破壊されていった。
ほとんどの映像が途切れ、もうこれ以上の情報は得られそうにない。だが、もう十分だった。
横で座って居たミヤが深くため息をつく。
「ハックの形跡がある辺り、単なる強盗ではなさそうね。市警の懸賞金目当てかしら……どこからか情報が漏れていたのかも。迂闊だった」
「……データは無事なんでしょうか」
ミヤも思うところがあったらしく、一応研究室のサーバーのデータを確認すると言った。
操作をする彼女の傍ら、ふと考える。ぼくが来た時、研究室は無人で、倒れたはずの博士はいなかった。侵入者は銃らしきものを構えていたはずだが、その弾痕や血痕さえ残っていないのは妙な話だ。
そもそも、今彼はどこにいるのだろう。
あったあった、と声が聞こえ、ぼくは再び画面に目を戻す。画面には見慣れたデスクトップ。研究室のサーバーに入って遠隔操作をしているらしい。
データは完全に削除されていた。外部からの干渉を防ぐためにあの人がしたことでしょう、とミヤが言った。不審なアクセスがあった場合、データを一時的に避難させて初期化するプログラムが組まれていたようだ。
ミヤは顎に手を当て、長いこと考え込んでいた。ぼくが反応できずにいると、彼女は勢いよく立ち上がった。
「とにかくこれからの行動を考えないとね。警察が嗅ぎつけたのなら、あなたの身も危ないわよ」
ミヤは身を翻し部屋から出ていく。ぼくも慌ててその後に続いた。
リビングに戻り、ぼくは再びテーブルについた。飲み終わったマグカップが乾燥して底に汚れがこびりついている。ミヤのほっそりとした指がそれをひょいと取り上げた。
「さて、これからのことだけど」
ぼくとミヤ自身のマグカップを水の中に沈め、ミヤはこちらを振り向いた。
はっきりと象られた目がまっすぐこちらを見ている。もったいぶるような間の後、彼女は重々しげに口火を切った。
「あなたの言っていた『第二研究室』、私には心当たりがある」
ひとつ、蛇口から水の滴る音がした。
ミヤは小さなピルケースのようなものをぼくに差し出した。促されるまま開けてみる。樹脂製のナノチップのようだ。
「あの人の言うことが本当なら、全てのデータが第二研究室に転送されているはずよ。ただ、あくまでそれは緊急避難。彼のデータを守るためには、まずバックアップを取らなくちゃいけない。それはわかる?」
ミヤの視線は強い。
掌の上のチップは小指の爪ほどの大きさだ。透明度の高い樹脂は医療用にも使われている素材で、注視していないと見失いそうになる。細かい溝が血管のように張り巡らされている。
「もう少しで重大な何かに届きそうだ、と彼は言っていた。あなたに彼の意志を継ぐ気があるなら、私の妹が第二研究室の近くにいるから、そこまで送り届けましょう。あなたの仕事はそのナノチップにバックアップを済ませること。データを生かすも殺すもあなた次第よ。どうする?」
樹脂製のチップを見つめたまま、ぼくは彼女の問いを聞いた。
彼らを切り捨て、どこかへ逃げてしまうのが賢明だとはわかっていた。父親を頼れば大事にならずに済むだろうということも。だが、それが大きな後悔になるということは容易に想像できた。
ぼくはあの人から研究を託されたのだ。
「やります」
ぼくは簡潔に答えた。「なら決まりね」と言って、ミヤが不敵に笑った。
「オーケー、なかなかいい目ね」
彼女の人差し指がぼくの顎を持ち上げる。
ちょっと待ってて、と言い残し、彼女は部屋を後にした。しばらくして戻ってきた彼女は、一抱えもある大きな救急箱を携えていた。
例のナノチップをぼくの足首に埋め込むのだという。取り出しやすいが露見しにくい場所らしい。
「あの人の第二研究室では、これがパスの一つになるわ。身体の微弱な電流に反応して高周波数の信号を送るって具合。彼のサーバーに接続されたら、自動複製するプログラムも組んである」
人工真皮を取り出しながらの滑らかな口調だった。人工真皮は怪我の治療などに使われる高価な素材で、四十八時間ほどで皮膚に完全に同化する。
「え」
制止する間もなく、ミヤがぼくの靴に手をかけた。丁寧に紐がほどかれ、靴下を脱がされる。素足に手が触れたくすぐったさに、思わず足を引っ込めそうになると、彼女の手がぼくの足を掴んで引き戻した。
「そう怖がらなくてもいいわよ」
注射に怯える子供をなだめるような口調だった。
エタノールのなぞるひやりとした感触。それに続いて、湿布を貼るのと同じ要領で、人工真皮が右足首に撫でつけられる。触ってみると、治ったばかりの傷のようなつるつるとした感触がした。
彼女はその上に軽く包帯を巻いて、丁寧に靴を履かせた。
「無事にバックアップが済めば、あなたは文字通り生きたデータになる。十分用心してね」
ミヤはとんと肩をたたき、ぼくの耳元に口を寄せた。「よろしくね」
ついでに彼女はぼくの手のひらの傷も手当てした。流血は止まっていたがかなり出血していたらしく、手のひら全体が真っ赤になっていた。彼女は脱脂綿でそれを丁寧に拭き取り、動かすと微かに痛む手のひらに、細く切った人工真皮を重ねた。
「大袈裟だ。少し切っただけです」
包帯を巻く彼女の傍ら、ぼくは戸惑いながら口にする。
「そんなことないわよ。地下の衛生環境を舐めないことね。取り返しのつかない感染症なんてうじゃうじゃあるんだから、警戒しすぎるくらいが丁度いい」
「地下、ですか」
ぼくは小さく復唱した。
「そう。地下にあなたを送り届けてくれる人がいる。準備ができたら向かうからね」
ミヤは平然と続けた。
いわゆる『地下』に足を踏み入れるのは初めてだ。戸惑いを感じつつ、「これでよし」とミヤが端の始末を終えたので、ゆっくり手を下ろす。
「……あの、博士は」
「あの人は、……――」
その時、「駅地下に行くんですかっ」と背後から声がした。振り向くと、先日の女の子が両手をぎゅっと握りしめながらこちらを見ていた。
「わたしも行かせてください」
小さいが、はっきりとした強い声音だった。訴えかけるような目に、ミヤは少し気圧されるが、表情は渋い。
「危ないから薫はここで待っててちょうだい。遊び半分で行くところじゃないんだからね」
「遊び半分なんかじゃないです。本気です」
薫は泣きそうな顔をしている。握りしめた手の甲がかすかに震えていた。
「だって、お母さんがいるかもしれないんでしょう? もしかしたら、わたしのこと、探してるかもしれない」
「だからって駅地下は子供が踏み入れていい場所じゃない。あなたに何かあったら、それこそあなたのお母さんに顔向けできないわよ。……いい子だから待ってて。すぐ戻るから」
ミヤは薫の顔の位置まで腰を落とし、薫の華奢な肩に手を置いた。「ね、お願い」というミヤの優しい声に、薫は唇を強く噛んでいたが、やがてしぶしぶといった様子で首を縦に振った。
その後、ミヤが別室で誰かと通話をしている時、ぼくはソファに蹲っている薫の様子を覗いた。ふてくされたような顔で蹲る彼女の目元は、うっすらと赤みを帯びていた。
「何か、お母さんの手掛かりになりものを見つけたら、君に教えるよ」
ぼくの声に、彼女は声もなくこちらを向いた。「本当ですか?」と尋ね、彼女は勢いよく体を起こす。
「約束する」
どうしてこんなことを言ったのかはわからない。彼女の殊勝さに同情心を抱いたのか。彼女の幼さと強情さに過去の自分を見たのか。どちらにしろ、ほんの気まぐれであることに変わりはない。
薫はぼくの返答を聞き、「ありがとう」とはにかんだ。泣き腫らした目だったから、余計にあどけなく、子供らしい無垢な笑顔だった。
「もうすぐ弟が生まれるんです」
薫はそう言ってソファの上で膝を抱える。わざと明るく努めたような口調だった。
「だから、お母さんと、長野のおばあちゃんちまで帰る途中だったんです、わたし」
弾むように話していた彼女は、途中で言葉を止める。続きを口にする代わりに、彼女は膝を自分の方にぎゅっと引き寄せた。何かに耐えるみたいに。
首都高を通るバスが理不尽な暴力に襲われたあの時、彼女はその瞳に何を見たのだろう。
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