廃駅(1)

 ミヤの住居スペースは、そのまま旧駅跡の入り口につながっているようだ。ぼくらは店とは別の入り口を出て、湿ったにおいのする通路を歩いていた。天井の低い通路は延々と続いていて、先が見えない。どこからか水が漏れているのか、濡れた地面が照明の頼りない明かりをてらてらと返していた。

 左右の壁には、美容外科や英会話の電工看板が取り外されないまま残っている。煤けた看板の中央で、アンという女優が模範的な笑顔を作っている。

 この辺りはかつて地下鉄として使われていた駅跡だ。二〇五〇年代にたて続けに鉄道が廃線となってから、日本では多くの駅が持て余された。雑貨屋や飲食店などが軒を連ねていた地下街は、そのままシャッター街へと姿を変えた。今では不法滞在者やホームレスが住み着き、麻薬や売春などの違法取引の温床となっている。

 東京の地下は蟻の巣状に線路が張り巡らされており、労働者たちが通勤手段として重宝していたらしい。そのため東京の地下空間は他の都市よりもずっと広大で、地上よりも快適な環境と相まって人口集中を促した。今では街に似た単位が形成されているというから驚きだ。

 ミヤは主に地下の住人を相手に商売をしているらしい。裏の人間も多く住み着いている地下では、情報はそれほど安い商品ではない。カモフラージュとしての酒場も、情報を集めたり取引したりする手段として動いているようだった。

「あの子の母親のことも調べているんですか」

 空洞のようになっている地下空間には、声が場違いなほどよく響く。

 かつん、かつん、という乾いた靴底の音に混じって、ミヤの「そうねえ」という返事が聞こえた。

「いくら東京とはいえ、あれほど物騒な事件は珍しいからね。被害者のルートを追ってはみてる。子供はほとんどがバラされて売られてるか、幼児趣味の変態に買われてるかね。薫の母親を含めた女性のほとんどは、生死は半々ってとこかしら」

 含みのある言い方だった。

 ムッとするような臭気が鼻をかすめ、ぼくはコートの襟口を引き上げる。地下の生活臭だろうか。あまり換気機能が働いていないのかもしれない。

「知ってる? 胎児ってけっこういい値段で売れるのよ」

 ミヤは表情を変えずに言った。思わずぎょっとしたぼくを、彼女はちらりと一瞥し、続ける。

「そういうビジネスが最近流行ってるの。女の子が自分から胎児を売る場合がほとんどだったけど、女をさらって妊娠させて無理やり堕胎させるっていう乱暴な輩も増えてる。あのバスジャックの目的はそれよ」

 なんでも、薬に使われているとかで、東京外からの需要は絶えないらしい。

 もうすぐ弟が生まれるんです。

 薫の明るい声。

 絶句したぼくを見て、ミヤはからかうような笑みを浮かべた。

「あの子の母親はきっと助からない。『地下』がある限り、胎児ビジネスは決して明るみには出ないし、バスを襲った犯人たちが公的に裁かれることもない。ここはそういうところよ」

 気づまりな沈黙の中に、靴の音だけが響く。

 ざわめきと共に、終りの見えなかった地下道に明かりが見えた。光は皮肉なほど暖かな色をしていた。

「……彼女らを助けようとは思わないんですか」

「あら、優しいのね」

 光の中に迷わず足を踏み入れながら、彼女が言う。

 ぼくは何も答えなかった。結局ぼくは型通りの道徳に捕らわれていて、だけど地下にはそんな子供じみた正義はない。わかっているつもりだが、馬鹿にされるのは癪だった。

「地下ってかなりギリギリのバランスで保たれてるのよ。干渉しすぎるのはあまり賢いやり方じゃない。できることも限られてる。こっちだって女の身ひとつだからね」

「ならなぜ薫を助けたりしたんですか」

 彼女はぼくの問いを無視し、八つ当たりのようにわずかに歩調を速めた。結局彼女も同情心を捨てきれないのだろう、と思った。

 今だってそうだ。博士という繋がりがあるにせよ、この人にぼくを助ける義理はない。

 目深に被ったフードのせいで、視界が悪い。速足で歩くミヤを追いながら、目立たない程度に辺りを見渡す。

 ぼくたちは本格的に地下街に入りつつあるようだ。昼夜のわからない無機質な光の下で、毛羽だった毛布にくるまって寝ている中年男性の姿が見えた。色あせたポスターが等間隔に並んでいるのと同じように、壁際に等間隔に座り込んでいる人や寝ている人がいる。痩せた子どもが三人、ひとつの毛布に身を寄せ合っていた。

 キューブと呼ばれる携帯食の包み紙や、どす黒い液体の入ったペットボトルがあちこちに散らかっている。ペットボトルはアンモニア臭に近い異臭がして、小さな虫が集っているのが見えた。

 ミヤは平然と足を進めていく。

 輪になって紙幣を数えている若い男のグループ。足元に酒の缶を置いたまま、壁際に立つ売春婦。キューブを貪っている幼い兄弟。地下の住人と思しき人々とすれ違う度に、吟味するような眼差しがこちらに向けられているのがわかる。

 中心街に近づくにつれ、徐々に人の数が増え、聞こえる話し声や怒号も大きくなっていく。異臭に混ざる酒のにおいも濃くなる。「おい坊主ぅ、いい女連れてんじゃねえか」誰かが唾を飛ばしながら大声で野次った。

 しばらくすると、繁華街のような通りに入った。きらびやかなネオンは、昔の映画で目にしたことのある過去の東京を彷彿とさせた。光が届かない場所だからだろうか、今は昼間のはずなのに、地下の中全体はまるで夜だ。

 街は賑やかだった。

 死骸のようになってしまった東京の中で、ここだけはまだ、かろうじて呼吸が残っているのかもしれない。


 二番ホームと書かれた看板を目印に、ミヤは細い通路に入っていく。再び人の気配が少なくなっていくのを感じながら、ぼくはミヤのすぐ後ろに歩み寄った。

「ひとつ訊いてもいいですか」

 相槌の代わりに、ミヤは目だけでこちらを伺う。

「あなたは、……――あなたたちは何者なんですか」

「それはどういう意味で言ってるの?」

 質問を質問で返すのは卑怯だ、と思う。

 止まったままのエスカレーターを下りる。セーターの襟が覆っているせいで、彼女の首元は見えなかった。先日のチョーカーといい、博士の包帯といい、彼らは執拗に首元を隠している。そう気がついたのはついさっきのことだ。

 一度何かを引き当ててしまうと、手繰り寄せるように色々なことが結びついてくる。

『どちらかというときょうだい、ですかね』

『僕にも色々あるんですよ』

 奥歯にものが挟まったような博士の言い方。

『たった一度でもいいから、咲いている桜を見てみたくて』

 一度ならず怪訝に思った、彼の台詞。

 彼が決して自らの身の上を語ろうとしなかったこと。

 色々な場面でちぐはぐだったことが、ある仮説を立てるだけで、合点がいってしまう。

「法律では、アンドロイドは見える場所に刻印が必要らしいですね」

「へえ、あなた、法律にも明るいんだ」

 真面目に取り合っていないような口調で、彼女はわざと話を逸らす。

 彼女――というよりも、それ、と言うべきか。

「あなたと博士が首元を隠しているのは、刻印を隠すためなんじゃないですか?」

 ミヤは何も答えない。その代わりに、「ジロウちゃんの言ってた通りね」とミヤは愉快そうに言う。

「あなた、優秀だわ」

 今度はぼくが黙り込む番だった。ミヤはまじめに答える気はなさそうだ。

 これは是、なのだろうか。

「私もひとつ気になることがある。いい?」

 彼女の勢いに負かされて、ぼくは完全に会話の主導権を失った。

「どうして私を信用したの?」

 東京の地下なんてところに連れてこられて、売られるかもしれない。殺されるかもしれない。そんなこと、あなたも考えるまでもなくわかっていたでしょう?

 彼女は歌うように節をつけて言った。ぼくを試すような目をしていた。

「博士があなたを信用していたからです」

 口だけで笑って、ミヤは再びぼくに背を向けて歩き出す。



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