廃駅(2)
階段を下り、しばらく歩いていくうちに、閑散とした地下鉄のホームが現れた。どこまで歩くのだろう。長いこと階段を下っている気がする。
訝りつつミヤの顔を伺おうとした時、誰かがぼくらの前に立ちはだかったのがわかった。
「見ねえ顔だな」
男の低い声だった。黒い銃口のようなものがこちらに向けられている。銃身がかなり大きく、ソ連ではるか昔に使われていた自動小銃と形が似ている。冷戦時代の歴史的象徴として何かで目にしたことがあるが、実物を見るのは初めてだ。
「穏やかじゃないわねえ」
「いいから答えろ」
「客よ。仕事を頼みに来た。オギって人がこの辺りにいるでしょ? 話はつけてあるんだけど」
「あいつなら留守だ」
言って、男は大儀そうに銃身を下ろす。こちらを鬱陶しそうに見ながら、モッズコートのポケットを探り、煙草に火をつけた。
ひげ面で髪が長い。歳はまだ三、四十代と言ったところか。
「留守?」
話が違う、とでも言いたげに、ミヤが眉を顰める。
男は思わせぶりに手を差し出す。ミヤは苛立った様子で一万円札を取り出し、男の手に握らせた。彼は乱暴にポケットに万札をねじ込むと、ようやく続きを語り始める。
「調子乗ってるクソガキをとっちめに行ったのさ。あのおっさん、頭に血が上ると歯止めがきかなくなるからな」
「行き先は?」
「隣だ」
男は親指で背後を示す。指された先には、腐食した線路が深い闇の中に続いている。
あっという間に灰の塊になった煙草を、男は足元へと放り投げ、靴底で潰した。
「首都高でバスを襲った馬鹿どものツラを拝みに行った」
はっとしたぼくを見て、ミヤが制すように手を差し出す。
「戻る算段は?」
「さあな」
「困るわよ。こっちも急ぎなの」
「知るかよ」
押し問答。
男は二本目の煙草に手を伸ばし、「気になるなら顔出してみろ。じき終わるだろ」と顎先で線路の向こうを示す。
生きてりゃな。男がぼそりとそう言ったのを、ぼくは聞き逃さなかった。
「……ミヤさん」
「だめよ」
まだ何も言ってない、と言おうとしたぼくの唇を、ミヤの人差し指が押さえつける。
「あなたの身に何かあったら、私がジロウちゃんに顔向けできないじゃない」
「……危ないとわかったら引き返します」
「あのねえ」
頑として視線をそらさないぼくに、ミヤは渋い顔で眉間を抑えた。
「わかったわかった。そういうことなら、俺が『そいつ』を引き受けてやる」
口から煙を吐きながら、男が割って入って来る。
ぼくとミヤは同時に男の方を向いた。咥え煙草をしている男の口元が、うっすらと笑ったように見えた。
「お前らの言ってるオギとは同業者だ。運ぶのはそのガキだろ? 俺は人間はめったに乗せないが、サービスだ。報酬次第では考えてやる」
急ぎなんだろ? と、煽るような声。ミヤは不審そうな目を向けていたが、ちらりと手首の時計を見て、ますます渋い顔をする。
彼女はポケットから厚みのある封筒を取り出し、男に手渡した。男は乱暴にそれを受け取ると、中に入っている金を一枚一枚数えた。彼の表情は変わらない。
「手持ちはそれしかない。それで勘弁してちょうだい」
「ほう。なかなか弾んでくれるねえ。行き先は?」
「筑波」
「引き受けた」
男は満足そうに封筒をポケットに入れた。ミヤは不審がっていたが、通話がオギに繋がらないとわかると、とうとう諦めたようだ。ぼくの肩に手を置きながら、「何かあったら連絡をちょうだい」と耳打ちした。
「じゃ、行こうぜ、坊主」
男はそう言って、強引にぼくの肩を抱く。半ば引っ張られるように歩くぼくの背中に、ミヤの視線が遠くから投げかけられているのがわかった。
男はサガミと名乗った。運び屋という仕事をしているらしい。肌が浅黒く、中東系の人間を思わせる掘りの深い面立ちだった。
「さ、行くか」
どさり、と線路の上に飛び降り、サガミが歩き出す。ぼくも続けて線路上に下りる。地面は柔らかく、動くたびにがさがさと音がする。ゴミに混じって蝿の動く気配がした。
線路の上には投げ込まれたゴミが層を作っており、線路の姿はかろうじて見える程度だ。生ごみと思しき悪臭を放つもの、湿気た錠剤や使用済みの注射器などもあったが、ほとんどがキューブと呼ばれる簡易食品の包装だった。
死体も捨てられていそうなものだが、鼠やゴキブリや大きな蜘蛛の死骸が転がっているくらいで、少なくとも人の死体は見当たらない。
一般的に、死体は業者に回収されて処理施設に運ばれ、専用の圧縮装置を用いて砂糖のような白い粉末に変えられる。極端な高齢化による墓地の不足、身寄りのない死体の処理問題、火葬による二酸化炭素排出などの解決策として、キューブにも用いられている特殊な圧縮技術、SECTは、死体処理にも応用されるようになった。樹化病の流行していた当時の東京では、毎日数千人分の死体が圧縮処理で粉にされたらしい。
圧縮処理にかけられた人間の質量は千分の一になる。具体的に言えば、六〇キログラムの人間はおよそ六〇グラムとなり、一人当たりお椀一杯ほどの粉末に変わる計算だ。
「多少寄り道するが付き合え。お前は逃亡中か?」
サガミがぼくに尋ねる。そんなところです、と簡単に答えると、彼は黄ばんだ歯を見せてにやりと笑った。「世も末だな」
ホームが遠ざかるにつれ、線路上に積もっていたゴミが減っていく。それに伴い、光源もさらに乏しく、心もとないものになる。暗闇の中、レールの上を歩くのはかなり神経を使うが、彼は慣れた様子で歩を進めていた。
「どこに行くんですか」
サガミは隣駅の名前を言った。「気になるんだろ?」とこちらを一瞥した彼の顔は、暗闇に溶け込んで表情が読めない。
確か、隣駅はバスを襲ったグループの根城だと言っていた。彼らは女をさらって妊娠させ胎児を売っているのだと聞いた、という話をすると、サガミは「ああ」と一言頷き、「だが、それだけじゃない」と話を続けた。
「胎児の一部は政府が買い上げてる。胎児ビジネスをやり出したミーハーな奴らの中には、その権力を盾に好き勝手やってる奴もいる。バスを襲った連中もその一派だな。胎児ビジネスそのものは、いつかのパンデミックみたく東京のあちこちに広がってる」
買われた胎児は主に医療用の試料として、特に樹化病の治療薬に使われているらしいから、皮肉な話だ。病が流行していた当時、治療薬が高価だったのもそのためだという。
「十代そこそこで妊娠する女なんかざらにいる。ニーズもあれば供給も絶えない。行政は汚れ仕事を地下に押し付けられるし、地下の馬鹿どもはビジネスを口実に女を犯せるときた。流行らないわけがない」
それだけならよかったが、あいつらは少々ハメを外しすぎたな。サガミはけだるそうに呟く。ニュースでは東京を進路に入れたバス会社への批判が相次ぐばかりだった。だが、通りがかっただけのバスを襲って乗客を殺し、子供や女をさらうのは、いくら東京でも多少行き過ぎたやり方らしい。
「昔から、あのおっさんは、そういう馬鹿は一発叱らねえと気が済まないような馬鹿だったんだよ」
ぼくに背を向けたままサガミが言った。ぼくから見ればサガミも十分「おっさん」の領域だが、あのおっさん、というのは、オギという人のことだろう。
彼の歩幅は大きく、肩にかけた銃身が歩くリズムに合わせて上下に揺れていた。
「あいつは俺の親父みたいなもんなんだ」
そう前置きをして、サガミは身の上話を始めた。
彼がぼくと同じくらいの歳の時、故郷から飛び出して来た東京で唐突に病が流行り出した。感染防止の名目で街が封鎖され、地元への帰路を断たれた彼ができることは、荒れ放題の市街をただうろつくことだけだった。
当時は大規模な市民運動に加えて、失業者や不法滞在者が街に溢れ、窃盗や放火が蔓延っていた。道端にごろごろ転がる黒く干からびた死体は、業者にまとめてトラックに積み込まれた。少年だったサガミは途方に暮れていて、死体がゴミか何かのように車に放り投げられていくのを、呆然と眺めていた。その時出会ったのがオギだった、らしい。
「金の稼ぎ方もここでの生き抜き方も、全部あいつから教わったんだ。とんでもねぇ馬鹿でおせっかい焼きだから、俺みたいなのの面倒も見たがるし、ハメはずしすぎたクソガキにも首を突っ込みたがる。いい歳でガタが出てきてるくせに短気だからな。今日も人の道がどうとか言って怒り心頭で出て行ったさ。……人の道、なんてとっくに消えてそうなもんだけどな。
口こそ悪いが、揶揄する口ぶりではなかった。
線路はまだ続いていて、奥に錆びた鉄扉が見えた。セキュリティロックがあったようだが、誰かに壊されたらしく激しく損壊している。
錠の壊れた扉の中には、さらに深い暗闇で満たされた通路が広がっている。サガミはためらいなくその中に進み、ぼくもそれに続いた。
通路は細く、天井も低いようで、圧迫感が強かった。しばらく歩いていくうちに、再び線路の端が見えた。それを辿っていくと、車庫と思しき広い空間が現れる。朽ちた電車が何台か。ここが『彼ら』の根城だとサガミは言った。
狭苦しかった通路に比べて、見違えるように天井が高い。仄かな灯りに群がる蛾と、薄く張った蜘蛛の巣。全体が錆び色をしていて、壁の高い位置に照明があるものの、全体は薄暗かった。廃坑のような雰囲気だ。
やたらと巨大な空間には、足音がよく反響する。
オレンジのラインのうっすら残る車両は、ところどころが赤黒く汚れている。それが血なのか泥なのか錆びなのかはわからない。その周りに、電車の入り口からこぼれ出るように、いくつもの死体が転がっていた。紫色の内臓が体の中からだらしなく飛び出ていた。床の継ぎ目に沿って流れた血液が、黒々と固まっている。
「……惨いな」
そう言ったきり、サガミも絶句している。直視したくはないが、ぼくは薄目で辺りを見渡す。中に薫の母親がいるかもしれないと思ったからだ。
サガミはひとつひとつを吟味するように観察していた。「うわ」とか「ひでえ」といった声が時折聞こえる中、恐る恐る確認していくが、それらしい人影は見つからない。
生きている人間は、犯行グループと思しき人影も含め、ひとりも見当たらない。死体を放置して、別の場所へ移動してしまったようだ。
サガミは金属製の階段を上り、電車の中へと入っていく。中は居住スペースのようだ。山積みになったキューブや飲料水。ゴミは散らかり放題になっていて、シートにかかる毛布には、白っぽくて乾いた染みがついていた。
車内はなんとも言えない生臭いにおいが充満していた。吐き気を催すような腐敗臭。だが、それだけじゃない。おそらく血と精液のにおいも混じっている。
「こいつは妊婦か」
サガミの呟く声に、ぼくは咄嗟にそちらを向く。見ると、痩せ形の女の死体だった。それとわかるほど膨らんだ腹が裂かれ、女は目を開けたまま息絶えていた。血なのか排泄物なのか、どす黒い液体が周りに広がっており、靴底をあげるとねっとりと糸を引いた。比較的新しい死体のようだ。
薫の母親は妊婦だったはずだが、確証はない。そう思った矢先、しゃがんで何かを物色していたサガミが、「他にも子供がいたらしいな」とぽつりと言った。
「キーホルダーに子供との写真が埋め込んである。三、四歳に見えるな」
ほら、とサガミはキーホルダーをこちらに手渡してくる。小さな女の子を膝に抱いた母親の写真だった。女の子の顔は幼すぎて、あの子の面影があるかどうかはわからない。だが、今より十歳近く若いであろう母親の照れくさそうな笑顔は、「ありがとう」とはにかんだ薫のものと驚くほど似ていた。
サガミはすでに他の場所を探索し始めている。ごつごつとして荒れた手には、死体から漁った物品がいくつか。とはいえ、金目のものはそう多くはない。
ぼくはキーホルダーをポケットにしまい込み、べたべたとした粘液の広がる床にしゃがんだ。
正面から見る女の顔はあまりにも生々しかった。ぼくは彼女のまぶたを指で閉じ、放り出されていた手を胸の前で重ねた。死後硬直を通り越したらしく、固いと思っていた死体にぐにゃりと指が沈んだ。
これはただの宗教的儀式であり意味はない。そうわかっていても、ぼくはそうせずにはいられなかった。それほど痛ましかった。
ちょうどのタイミングでサガミが戻って来る。彼はぼくに目配せをして、先頭車両へ続く扉へと手をかけた。その時、
「もう誰もいねえぞ。もぬけの殻だ。とんだ無駄足だった」
老人のしわがれた声がした。ぼくの視線の先では、年老いて痩せた男が運転席に腰かけていた。病で切り落としたのか、左手の肘から先がなく、服の袖がだらりと垂れ下がっている。
先頭車両の制御室、今はもう意味をなさない運転席の椅子の上。彼は鋭い目でこちらを見ている。
「何が無駄足だ。てめぇの気分で依頼人をほっぽり出しやがって」
サガミが老人に向かって声を張り上げた。この人がオギ、だろうか。
「馬鹿たれ、もう一度首都高が襲われてみろ、俺ら運び屋の仕事はどうなる? 俺たちは信用が命なんだぞ。ここはさっさと喝を入れにゃならんだろが」
「だからってタイミングってもんがあるだろ。これこそ信用に傷がつくだろうが。その上まんまと逃げられるたァ滑稽だなクソジジイ」
「んだと、口の利き方には気をつけろよクソガキ」
彼らは互いに睨み合っている。
この口の悪さは、険悪な関係のあらわれなのか、それとも親密さか。
「言っとくがな、テメェがこんな場所でゴタゴタしている間に、俺があの女の依頼を引き受けたぞ」
サガミが顎をそらして老人をにらみつける。途端、老人の鋭い目がぼくの方に向けられた。思わず背筋が固まる。
「あのアバズレ女からの依頼だからどんな奴かと思ったら、こんな乳臭いガキだとはな。地下の人間じゃないだろう。何モンだ、お前」
ぼくにどんな裏があるのか勘ぐっているようだ。「警察か? 政府の差し金か? あの女との関係性を教えろ」と、畳みかけながらこちらに迫ってくる。
その瞬間、様子を伺っていたぼくの額に、何か固いものが当てられた。目だけでちらりと確認すると、黒い銃身のようだ。「答えねえならここで
「……ぼくは、あの人のきょうだいと一緒に、桜の研究をしていました。市警の捜査が入って研究室にいられなくなったので、ミヤさんを伝ってあなたたちを頼りました。それだけです」
回答をせっついた割には、彼らの反応は薄い。
老人は舌打ちをして銃身を下ろす。「話には聞いていたが、あそこの研究室のガキとはな。見るからに育ちが良いわけだ」との悪態を伴って。
彼は不機嫌そうに唾を吐き、こちらを見る顔をますますしかめた。
「そもそもあの女はいけ好かなかったんだ。いきなり地下相手に商売を始めたと思ったら、共同管理していた地下のサーバーごと丸ごと手中に呑みこみやがった。その上親はあの東郷ときてる。あんな場所で研究をしてる胡散臭い野郎もだ。東郷は何を企んでやがる? お前もその傘下なんだろう、なあ?」
言っている意味がよくわからない。東郷という名前には聞き覚えがあるが、少なくとも親しい知り合いでも親族でもない。話から推察するに、東郷はおそらくミヤが「パパ」と呼んでいた男だろう。
「ぼくは研究に協力していただけです。彼らの親のことは知らない」
そう口にして、ふと何かが脳裏によぎった。
あの研究室に行くことを大学で三人の男に迫られた時、大学内部の者ではない人間が一人いた。その男から渡された名刺に載っていた名前は、確か東郷ではなかったか。
「……その辺にしておけよ。ガキ相手でも仕事は仕事だ」
吐き捨てるように言い、サガミは踵を返す。ぼくがついて行こうとすると、背後から老人のがなるような声が聞こえた。
「生っ白いガキだからって、油断して寝首かかれんじゃねぇぞ」
「うるせぇ、そっちこそ易々とくたばるなよ」
振り返ることもなく歩くサガミの歩調は速い。
老人の痛いほどの視線を感じながら、ぼくはサガミに必死について行った。しばらく彼は無言を貫いていたが、車庫らしき広場を抜け、再び細い道に入ったところで、「あいつはもう長くないんだ」とこぼすように言った。
「本人もそれがわかってるのか、最近自分に歯止めがきかなくなってな。今回の依頼の件もそうだ」
手間かけて悪かった。聞こえるか聞こえないか程度の声で、彼が言った。
老人の体では、随分前に発症した樹化病が、老いによる免疫の低下でぶり返してきているようだ。ぼくは老人の左腕が半分しかなかったのを思い出した。流行当時にサガミが処置をしたらしい。
切除や止血のための器具はもちろん、消毒用のエタノールすらろくに手に入らない時代だ。まして麻酔なんて手に入らない。苦しむのを押さえつけながら切除し、傷口を焼いて止血をするのが、彼の精いっぱいだった。
地獄だった、とサガミは端的に告げた。苦々しい表情だった。
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