廃残(1)
東京は美しい街だ。
十数年前まで賑わっていたらしいビル群は、どれも人の気配を消している。ガラスのない建物。鉄骨がむき出しのコンクリート。瓦礫。無機質な鉄クズの山。荒廃したみすぼらしさは、自然物や芸術品とも違う美しさを持っている。それはもしかしたら、この場所に満ちた死の気配のせいかもしれない、と思う。
十数年前に東京を襲った病は、当時日本で最も栄えていたであろうこの場所を、いとも簡単に崩壊へと導いた。ぼくの母親も、ぼくが生まれたのと同じ日に病で死んだらしい。ぼくは当時の惨状を直接は見ていないが、あの時伐採されたらしい枯れた切り株や、人の死体を思わせる黒ずんだ染みは、まだそこかしこに残っている。
東京の復興はなかなか進んでいない。財源不足が大きな理由だが、病の流行はあまりにも凄惨すぎて、この土地に染みついた穢れはあまりにも強すぎた。多くのメディアが不安をあおり、風評被害は病よりもずっと簡単に広まった。たとえ病が収束化して十数年が経過した今であっても、東京の人間に対する差別はいまだ根強い。県境に張られた有刺鉄線は、まるでその象徴のようだった。
ぼくは叔父の家がある千葉に住んでいた。寂れたバスの終着駅に降り、行く当てもなくふらふらとしていた時、ほんの偶然で県境を見つけた。
有刺鉄線の向こう側に、ほとんど人の気配はない。忘れ去られたようなビルの影だけが、遠くに霞んで見えていた。
ゲットーのような隔離空間。ぼくがその中に足を踏み入れようとしたのは、思えばちょっとした出来心にすぎなかった。
カメラを手に、広いビル群の中をあちこち歩き回った。帰り道を見失わないように注意しながら、埃をかぶったアーケードや、きらきらと光を反射するガラスの破片や、何かの店の跡の暖簾や、建物に囲まれた、狭いけれど澄んだ空や、色々なものをフィルムに収めていった。
ぼくは、この街が持つ独特の感傷のようなものが、好きだった。
東京に通うことが週末の習慣となって、しばらく経ったある日。ぼくは大学からメールによる呼び出しを受けた。指定された場所に向かうと、授業を受けたことがある生化学の教授の他に、見慣れない顔が二人。ひとりは同学内で心理学を専門とする教授だと名乗った。もうひとりは大学関係者だという車椅子の男。ぼくは怪訝に思ったが、着席を促され言われるがまま椅子を引く。
車椅子の男は東郷と名乗った。差し出された名刺には、名前と共に洋菓子店のロゴが載っていた。
彼らはまず、ぼくが毎週東京へと行っているのは本当かと尋ねた。ぼくが頷くと、彼らは続けて、ぼくに協力してほしいことがあると告げた。詳しいことは言えないが、実験と研究の一環であると。「ぼくが実験対象となるということですか」と尋ねると、彼らは少し顔をしかめた後、端的に言えばそうだが、ただの心理実験だから身体的被害を受けることはないと説明された。
ぼくが彼らから言い渡された条件はひとつ。東京のある場所に行き、そこにいる人とともに一定時間過ごすこと。もし不快に思うことがあればいつでも中座することが許されており、謝礼としてそれなりの額が用意されていた。きな臭くはあったが、ちょうど欲しいカメラのレンズがあったので、ぼくはその依頼を引き受けた。指定された場所は、ぼくがいつも歩き回っている場所から少し奥まったところにあった。
週末、指定された場所まで向かうと、にょきにょきと生える廃墟の群れの中に、豆腐のような四角い建物がぽつんと佇んでいた。一見すると他の廃墟と変わらず、誰かがいるような生活感はまるで感じられない。
呼び鈴と思しきものを押すと、「はぁい」と柔らかな返事。その後、音もなく扉が開いて、若い男が顔を出した。それが、ぼくが今「博士」と呼んでいる人物だった。
ワイシャツとネクタイ、白衣というシンプルな出で立ちだが、首元の包帯だけが場違いに浮いていた。彼はぼくを廊下の奥へと通す。外観と同様に、室内の設えも最小限で、ごくシンプルだった。
廊下を通り、一番奥の部屋に入ると、薬品棚や実験用器具がごちゃごちゃ置かれたスペースの中に、小さなキッチンとテーブルがあった。一見するとなにかの研究室のようだったが、居住スペースも兼ねているらしい。彼はぼくをテーブルへと座らせ、腰の高さほどの冷蔵庫からケーキの乗った皿を取り出した。冷蔵庫の中にはシャーレらしきものがちらりと見えた。
「甘いものが嫌いじゃなければ、お菓子を用意したので、よければどうぞ。コーヒーと紅茶、どちらが好きですか?」
キッチンから振り向きざまに彼が尋ねる。「コーヒーで」とぎこちなく返すと、彼は「わかりました」と微笑した。テーブルの上には個包装のクッキーが籠に入れられていて、袋に小さく「オリエント」とロゴが入っていた。東郷という男の名刺に載っていたと同じものだった。
感じたことのない緊張と所在なさ。椅子に何度も座りなおしながら彼を待った。
やがて、コーヒーが二人分テーブルに置かれた。「砂糖とミルクは好きなだけ入れていいですよ」と、砂糖とコーヒーフレッシュの入った瓶をひとつずつ置き、彼が腰を下ろす。
「初めまして。先生からお話はうかがっています。市村治くんでしたか。なんとお呼びすればいいですか?」
すらりと背の高い人だが、話す目線をぼくに合わせている。
「……ハル、でいいです」
苗字で呼ばれるのはあまり好きではなかった。
「ハル、ですね。わかりました。僕のことは博士とでもお呼びください」
先程と同じような、柔らかな微笑。ほとんどの大人がぼくと話す時に見せる、戸惑いのようなものは、彼からは感じなかった。
彼から質問を受け、答える。わからないものや答えたくないものがあれば、回答を避けることも自由。ぼくと博士はその日、そういう約束でいくつかやりとりをした。ぼくが言葉少なでも、黙り込んでも、彼がそれを咎めたり嫌がったりするそぶりはなかった。
それから、指定された通りに、週に一度彼のもとへと足を運んだ。ずっと喋っている必要はなく、彼の部屋にいる時間は何をするのも自由だった。
ぼくにとって博士の研究室はいつしかシェルターのような場所になっていった。そこにいれば絶対に加害されることはない、守られた場所。
いつだったか、何の研究をしているんですか、と尋ねたことがある。彼は悪戯っぽい表情を浮かべ、「枯れ木に花を咲かせようとしているんです」と口元に人差し指を置いた。
「はなさかじいさん、ですか」
「ええ。端的に言えばね。僕は立ち枯れてしまった桜の再生方法を探しているんです。たった一度でもいいから、咲いている桜を見てみたくて」
「見たことがないんですか」
ぼくは間髪を入れずに尋ねた。あの病が流行ったのはぼくが生まれた頃の話だ。博士はぼくより年上だろうから、桜の花を見る機会は多少あったはずだった。病の流行以前には、桜は日本を象徴する花で、そこかしこに植えられていたと聞いている。
「僕にも色々事情があったんですよ」
博士はいつものようにはぐらかし、ぼくにコーヒーのおかわりを入れようと席を立った。
戻ってきた彼に「その研究、よければ手伝わせてもらえませんか」と言うと、彼は目を輝かせ、「本当ですか?」と身を乗り出した。
僕たちだけの秘密ですよ。彼は嬉しそうに言った。その一言で、ぼくの研究への加担が決まった。
あれから一年あまり。壊死した細胞を完全に回復させる方法はまだ見つかっていないが、十数年前に桜を襲った腐食のメカニズムは、明らかになりつつある。簡単に言えば、根腐れと細菌感染だ。「ここまでは、すでに過去の論文で示されているんですよねえ」と博士がぼやく通り、ある程度のところまで進んだ研究は、ぼくが加担する前から今に至るまで、一進一退を繰り返していた。
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