廃校(4)

 翌朝、鼻歌交じりのナナの声で目が覚めた。

 聞いたことのない歌だった。のっそりと体を起こし、カーテンに手を伸ばす。床に足をつけると、足首の付け根がじんと痛んだ。熱を持っていて腫れぼったい。ちょうどナノチップを埋め込んだあたりだ。

 ナナはテーブルの上に腰かけ、ぶらぶらと足を揺らしていた。ラジオのチューナーに手を伸ばし、チャンネルをいじっている。

「あら、おはよう。随分よく寝てたのね」

 ナナはぼくを一瞥し、テーブルから飛び降りる。「なんか食べる?」と冷蔵庫に向かう彼女に、「朝はコーヒーだけ」と言い、小さいキッチンに立つ。

 コーヒーメーカーは隅で埃をかぶっていた。

「あたし、苦いの飲めないのよね。コーヒーより紅茶が好き。うんと甘くしたやつ」

「……おこちゃま舌」

「うるっさい」

 彼女は不機嫌そうにそっぽを向き、ラジオの音量を上げた。ノイズ交じりに昔の音楽が聞こえる。

 コーヒーメーカーに水をセットし、豆の入った瓶のふたを開ける。スプーンを差し込むと、中の豆は固まっていて、何度かざくざくとスプーンで刺してようやくほぐれた。

「なんで好きなの? コーヒーなんて、ただの苦くて黒い汁なのに」

 かちり、とスイッチを入れると同時に、どこかふて腐れた調子で彼女が言った。朝の淡い光に照らされて、上向きのまつ毛の一本一本が、艶やかに光を返していた。

「さあ」

 湧き出す水蒸気の泡を見ながら思う。

 ぼくはそれほど食べ物にこだわりをもつタイプじゃなかった。最初に博士と出会って、「コーヒーと紅茶、どちらが好きですか」と聞かれた時、コーヒーを選んだことも、思えばほんの気まぐれにすぎない。

 ぽたり、と静かに雫が落ちていく。

 こんなものを、どうして好きになったのだろう。

 ナナはトースターからパンを取り出し、手掴みでそのまま口にしていた。もそもそと頬張る彼女の様子は、木の実を頬張る小動物のようだった。

 出来上がったコーヒーに口をつける。豆が酸化しきっていて、とても飲めた味じゃなかった。


 第二研究室があるという場所は、木々の鬱蒼とした森のような場所だった。

 冬らしく葉の落ちた木もあれば、葉の茂ったままの針葉樹も雑然と植えられていた。荒れ放題の地面は、舗装こそされているようだったが、木の根で持ち上がったアスファルトがあちこち割れている。

「ここはもともと大学だったのよ」

 ナナが虫に食われた栗の実を踏み潰す。

 相当遷移が進んでいるようだ。あちこちで植物が茂り、研究棟の多くがツル植物によって浸食されている。まるで手入れがなされていないように見えるが、ナナの話によれば、ここ一帯はまだ研究施設がいくつか機能しているらしい。

「ここらはバイオ分野の研究が盛んだった。行政からは半ば見捨てられるから、敷地の管理はまるでできていないけど、その分グレーな研究も多いらしいわ。ちょうどあなたたちみたいに」

 とはいえ、病の流行からはすでに十数年が経過した。研究者の半数以上は高齢を極めていて、私財を食いつぶすしかない研究そのものも破綻しかけているようだ。

 ぼくらは物陰に隠れながら敷地内を歩いた。昨日よりも右足が痛むような気がして、途中何度も足を止めそうになったけれど、ぼくは決して歩くのをやめなかった。

 博士の第二研究室の場所はこの大学の中にあるというが、何せ敷地が広いので、なかなか見つからない。

「本当にこんな場所に研究室があるの?」

 歩くのに次第に疲れてくると、ぼくはそう尋ねずにはいられなかった。

「間違いないわよ。それがあたしがここにいる理由なんだから」

 枯れた草むらをかきわけながら、ナナが言った。この季節だから羽虫は少ないが、油断すると植物で手を切りそうになる。

「何、それ」

「そのまま。あたしは兄さんのラボの監視役としてパパに作られたの」

 ナナはどことなく不機嫌そうに見えた。彼女の着ている上着の一部は、鋭い草に切られ傷になっていた。彼女は構わずずんずんと足を進めていく。

 それからしばらく練り歩き、それらしい建物を見つけた時には、日はもう頭上高くに昇っていた。

 造りは他の棟と変わらない。コンクリート造りの簡素な建物で、金属製のドアとはめ殺しの窓がついている。

 ドアはロックがかかっている。手で触れると『スキャンしています』とのポップアップ。

『ICカードが認知されました』

 そのメッセージの直後に、四桁の暗証番号の入力が求められた。

 カウントダウンは二十秒。

 え、と思わず声が漏れる。

「自分の誕生日でも入れてみたら?」

 横でナナが無責任に言った。

 彼女の言葉に戸惑いつつも、カウントダウンはみるみる進んでいく。

 ぼくは半ば投げやりに数字を入力した。

 〇、三、二、四。

 ぼくが生まれた日でもあり、母親が死んだ日でもある。奇しくもそれは、母親の好きな作家の没日と同じだったらしいと、いつか父親が言っていた。

 入力から長いラグを置いて、自動ドアがゆっくりと開いた。


 建物の中は薄暗く、床が硬いから足音がよく響く。部屋の中には下り階段がひとつ。どうやら地下へつながっているようだ。

 階段は手すりの部分に電灯がついているが、それ以外に光源はなく、いやに暗い。ナナに「光れないの?」と聞いてみたが、彼女からは「さすがに無理」と冷たい返事だけが返った。

 慎重な足取りで階段を下る。しばらくすると頑丈そうな鉄扉が出てきた。ドアノブに手をかけてみると、重たいだけで鍵はかかっていないようだった。

 右足が痛い。

 電流のような痛みが走り、思わず唇を噛んだ。今朝包帯を取り替えた時はなんともなかったのに。

「大丈夫?」

 ナナがぼくに呼びかける。ぼくは無言で頷いた。

 もう一度、ドアノブに手をかける。金属が軋むような音。

 ドアを開け、中に踏み込むと同時に、感知式の照明が点いた。

 中には足の踏み場もないほど植物が繁茂していた。

「わっ、何これ」

 ぎょっとしたようなナナの声。どこかに巣があるのか、小さな羽虫があちこちで飛んでいた。

 一歩踏み出すと、水音が鳴った。床には植物の根がびっしりと張っている。

 水はどこからか少しずつ流れ出ていて、何らかの仕組みで循環しているようだ。壁や天井に多くついている同種類のライトは、紫外線照射だろうか。背丈も種類も様々な植物が、シンクやテーブルの脚などにも遠慮なく侵食し、この部屋を埋め尽くしている。

「ひどいものね。荒れ放題じゃない。……警察の目は、まだ届いていないみたいだけど」

 ナナが足元をしきりに気にしながら呟いた。

 ぼくは強い違和感を抱いていた。この植物の繁茂の仕方は、あまりにわざとらしすぎる。単に放置されていたにしてはおかしい育ち方だし、博士は几帳面な性格だった。

 悶々としながらも辺りを見渡す。

 部屋の中には三つドアがあった。一つがぼくらの研究室にもあった仮眠室で、もう一つが資料部屋。後の一室はそれ自体が巨大な冷蔵庫となっていて、様々な苗木やシャーレが保管されていた。雑然としていたあの部屋とは逆に、今度は整いすぎている。

 シャーレのガラスの冷たさが、まるで氷のようだった。指先がかじかんで少しずつ感覚が消えていく。ぼくはしばらく考え込んでいたが、寒さに耐えかね、その一室からはすぐに退出した。部屋を出ると、むわっとした生暖かい空気がぼくを包んだ。相変わらず植物はあちこちに枝を伸ばしている。

 その時、ぼくが感じていた違和感の正体が、不意に姿を現した。

 電子機器が見当たらないのだ。どこにも。

「どうしたの?」

 ぼくの動揺を察したのか、ナナが怪訝そうにこちらを伺う。

 ぼくは彼女にこのことを打ち明けようとした。機材が、という言葉が喉から出かかったと同時に、距離を詰めようとしたつま先が、木の根に強く引っかかったのが分かった。

 思わずバランスを崩し、壁に手を付ける。

 長いアラーム音と『スキャンされました』という音声が聞こえたのは、その時だった。

 地鳴りのような振動と共に室内の植物が動き出す。

「えっ、何?」

 遠くからナナの戸惑う声が聞こえる。ぼくは呆気にとられて声も出なかった。床に膝がついて、びしゃり、と派手な水音。それからだんだんと、それとわかるほどに水位が下がっていく。

 部屋の中の植物――ツルや根といった類のものが、吸い寄せられているみたいに、壁の一角に向かって集中し始める。やがてそれは一枚の板状になり、大きな振動を伴ってスライドした。

 闇の中に、一本の狭い通路が続いていた。

「……隠し部屋?」

 ぼくは体制を立て直し、ナナに目配せをした。

 重いバックパックを背負い直す。一人で行くのは気が引けたので、ぼくは彼女と連れ立って通路を進んだ。

 通路には、先ほどの植物の根のように、パイプや銅線が張り巡らされていた。幅は狭く、顔のすぐ横を時々青い光が走る。長く使われていなかったのか、あたりは埃っぽいにおいで満ちていた。

 通路はいつまでも長く続くかと思われたが、十メートルほど進んだところで視界が急に明るくなった。感知式の照明が使われているのだろう。

 部屋は先ほどの倍は広いように見えた。照明はついているものの、辺りは仄暗い。機材や書籍がぎっしり詰められたラック。それに囲われた部屋の中心には、三面鏡のように置かれた大きなガラス板と、のっぺりした金属が屹立している。直方体の上面にはうっすら埃が積もっていた。――なんだろう、これは。

 指で軽く触れると、水を弾くような感覚と共に、軽やかな電子音が響いた。

 光が飛び散って、ガラス板に文字が映し出される。

『セカンド・ラボへようこそ。データを同期しています。四%……』

 数字はみるみるうちに膨れ上がっていく。淡いオレンジ色の文字は、手で触れてみると、液晶画面に触れた時のようにわずかに歪んだだけで、反応はない。

「すごい、これ。向こう側が見える」

 見ると、ナナがガラス板の向こう側から顔を出していた。

 ぼくは大きな既視感に襲われた。


 小学生の社会科見学で、東京から移転された「こどもミライ博物館」という施設を訪れたことがある。その時、キューブに使われているSECTと呼ばれる圧縮技術や、AIアートの展示に混じって、ガラス板と金属の不思議な装置があった。手で触れると、薄い緑や青やオレンジの図形が波紋のように浮かんでは、小気味いい効果音が鳴る、というものだった。

『この装置はARと呼ばれる技術が応用されているんだよ。直感的で幅広い操作性は、医療現場や多くの製品に実装される予定だよ』

 スピーカーから告げられる棒読みの音声の中で、周りの子供はガラスに顔を押し付けたり、その周囲を走り回ったりして遊んでいた。ぼくはあの機械にずっと触れたかったのだけれど、ずっと誰かが周りではしゃいでいたから、遠くの壁際に座り込んだまま、ずっとそれを眺めていた。

 いつしか昼食の時間になり、他の児童が外の芝生に散り散りになった。弁当は外で食べることになっていたが、ぼくは人目を憚ってこっそり施設に入り込んだ。

 リノリウムの床に、スニーカーの足音だけが響いていた。ぼくはこわごわとその機械に近づいた。機械の表面にはうっすらと掌のマークが浮かんでいて、重ね合わせるように手を置くと、鈴のような音がスピーカーからこぼれた。

 同時に、淡い緑の三角形がガラスに浮かぶ。掌を乗せたまま、わずかに指に力を込めるだけで、三角形は自在に動きを変えた。手を離すと、図形は砂が崩れるように消えてしまう。金属を指先でつついてみると、青色の円形が一瞬だけ浮かんで、また崩れるように消えた。

 何年前のことだっただろうか。今まで思い出すこともなかったのに、記憶は鮮明に残っていることに気づく。


 画面の数字が一〇〇%に達すると同時に、ガラス板の光が一瞬途絶えた。直後、見覚えのあるレイアウトが映し出される。デスクトップの半分が何らかのフォルダに埋め尽くされており、どこか雑然とした印象だ。

 試しに開こうとしたファイルは、『※ネットワークにアクセスできません※』というメッセージが出るばかりで、そうでないものもひどく文字化けしていた。見覚えのないもの、タイトルが不明瞭なものも多い。

 言葉にならないほど小さな違和感が、ふと胸をよぎる。

 横で様子を伺っていたナナが、「どうしたの」とこちらを覗いた。ぼくは小さく首を傾げ、「なんだろう……」と口火を切ったものの、続く台詞が出てこなかった。

 とりあえずバックアップだけでも済ませてしまおうと、ぼくは機械を操作する。途端、ぴり、と掌に電流が走り、足に埋めたナノチップが一瞬熱を持った。

『バックアップを開始しますか?』

 『YES』『NO』の表示。『YES』を選択すると、『操作パネルから手を離さないでください』との指示と同時に、パックアップの進行度が示される。

『ファイルをコピーしています。二四〇/三三二〇……』

 進行度は少しずつ上昇していく。……それにしても、見覚えのないデータの数がかなり多い。ぼくが把握している情報は、全体の三割にも満たないだろう。第二研究室そのものが周囲の研究室のデータベース化しているのだろうか。

 ともかく、この膨大なデータには目を通さなければいけない。

 新しいウィンドウが浮かび、バックアップの終了が告げられた。同時に、デスクトップに広がっていた無数のデータファイルが、波が押し寄せるように消えていく。

 最後に一つだけ残ったファイルには、名前がついていなかった。興味本位でデータを展開する。途端、画面は一度ブラックアウトし、それから一瞬だけ閃光を発した。

 思わず目を瞑る。ゆっくり瞼を開けると、視界の隅でひらりと何かが落ちた。

 白い、雪のような粒だった。

 画面に映し出されたホログラム映像の中で、黒っぽい節立った木が、花弁を枝いっぱいにつけていた。風に枝が揺れ、舞い上げられた花弁が降り落ちる。花弁は乳白色にも、ほんのりと紅がかった色にも見えた。

 息を呑んだ。

 画面を覆いつくすほどの花弁。その大多数が失われてしまった、日本の遺物。

 ――これが、桜の花か。

 花弁のひとつひとつはごく小さい。雪の降り積もったようなやわらかな色彩の中で、花の中央が赤っぽく色づいている。

 美しかった。どうしようもないほどに。

 映像は少しずつ明度を失い、やがてもとの画面へと戻った。ぼくが見たデータは、もう残っていなかった。

「泣いてるの?」

 呆然と、言葉を失っていたぼくの顔を、ナナが覗いた。え、と短く返答し、頬を触ると、生温かい液体で濡れていた。

 ぼくは慌ててコートの袖で顔をぬぐった。ナナは怪訝そうだったが、やがて興味を失ったようにぼくから目をそらした。

 あの映像は、博士が残したものだったのだろうか。

 映像だから実物とは程遠いのだろうが、それでも生身の桜の迫力はかなりのものだった。あんなものが、東京中に病を伝搬したのだろうか。本当に。

 今はもう、実物の桜を見る手段は、腐った切り株以外に何も残っていない。西日本のどこかにはまだひっそり残っているという噂もあるが、見に行くような当てもない。

 おさまりの悪い感情に満たされる。「帰ろう」と言ってぼくは踵を返した。

「もういいの?」

「データは手に入れた。もうここにいる理由はない」

 ふうん、という彼女の声を傍目に、荷物を背負いなおす。本音を言えば、早くデータに目を通したかった。そして、腹の底にあるもやもやとした感覚に、さっさとケリをつけたかった。

 狭くて暗い通路を戻って、うじゃうじゃと蔓延る根と草を踏み越えて、ぼくらは第二研究室を後にした。

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