廃校(3)

 体が痛い。

 ぎしぎしと軋む古いベッドの中、悪い夢を見た気がして目が覚めた。

 辺りはまだ真っ暗だ。非常灯の光が薄く残っているくらいで、それ以外の光源はおよそ見当たらない。

 体を起こすと、首や肩の周りが凝り固まっていた。頭が重く、締め付けられるように痛む。かばんの中に鎮痛剤が入っていたはずだ。足で靴を探って、おぼつかない足取りでカーテンの外に出る。

 薄着のまま寝ていたにも関わらず、体は嫌な汗でじっとりと濡れていた。冷え切った部屋の温度が体温を奪っていく。ぜえぜえと喘ぐ自分の息。咳に嫌な音が混ざる。

 夢が脳裏に蘇る。浴びせられた黒色の油のべとべととした感触。虹色に光を返す黒い水たまり。囲んで笑う子供の、あまりにも純粋な笑い声。あれは夢なんかじゃなく、まぎれもなくの話だ。

 乱暴にかばんを探り、錠剤を手のひらから押し入れた。蛇口から手で水をすくう。喉元まで垂れてきた水で服が濡れる。

 壁際に座り込み、細い息を整える。頭痛は収まってきたが、今度はひどく寒かった。

 なぜ今更、こんなことを思い出したのだろう。


 小学校の時。ぼくの学校の近くに、廃工場があった。名目上は立ち入り禁止だったけれど、子供にとっては、大人の目が届かない絶好の遊び場だった。ガラクタや廃油の中に混じって、ぼくは異物感に素直な子供たちの玩具になった。

 端的に言えば、ぼくは嫌われていた。

 母親が流行り病で死んだとどこかで聞きつけられ、「ビョーキがうつる」と囃したてられたこと。「消毒」と銘打ってホースで水をかけられたこと。テストで褒められたぼくを「イヤミな奴」と蹴飛ばし、「こいつ、もしかして機械なんじゃねえ?」という誰かの声を筆頭に、「メンテナンス」と廃油を頭からかけられたこと。吐きそうなにおいとべたついた感触は、いまだに記憶の中から消えない。

 先生のいない教室や、廃工場の遊び場。そういった「子供の楽園」の中で、ぼくは徹底的に弄ばれた。

 ぼくが自分の心を守るには、全部をシャットアウトしてしまうことしかなかった。

『君は特別なんだよ、ハル』

 あの頃。月に一度会っていた父親は、学校に行きたくないと溢したぼくに、何度も言い聞かせた。

『君は特別なんだ。あんな程度の低い奴らの子供とは違う。君は出来がいい。だって君は父さんの子供なんだからね。君は特別なんだ』

 甘い声色。催眠か、あるいは呪いのようだった。

 教師や周りの子供の保護者はぼくのことを「協調性がない」となじったが、父親がぼくを否定することはなかった。そして、ぼくの目を見ながら何度も呟くのだ。「君は特別なんだ。そんな奴らに合わせる必要はない」と。

 心が楽にならなかったと言われれば嘘になる。誰かに認められることで、ぼくは、自分が存在していいんだと思える気がした。その代わりに、見えない枷のようなものがぼくを縛っていた。

『君を理解しない奴なんか放っておけばいい。馬鹿にする奴は鼻で笑っておけばいい。私の言うことを聞いていれば、君はもっと先へ進める』

「兄さん」

 叔父が咎めるように言い、ぼくと父親の間に立ちふさがった。

「そんな言い方ないじゃないか」

 ぼくを見る優しげな目から一転、父親は軽蔑を孕んだ目で叔父を見て、小さく息をついた。その時の目の冷たさが忘れられなかった。父親を失望させたら、ぼくはこんな目で見られてしまうのか――そう思って。

 ぼくに降りかかるあらゆる視線から逃れるように、父親に言われるがまま、飛び級を繰り返した。露骨な暴力は薄れても、陰口に変わっただけだった。「あの子が何を考えているのかわからない」と、ひそめいた声で話していた叔父夫婦と同じように。

 叔父夫婦にとっては扱いにくい子供。教室の中では異物。父親にとっては、完璧でなければならない子供。

 ぼくは、どこに居場所を見つければよかったのだろう。


「眠れないの?」

 頭上から降ってきた声に、意識が急に引き戻された気がした。

 胸の奥に苦々しいものがこみ上げて、ぼくはナナから目をそらした。好奇心の覗く眼差しはそのままに、彼女はぼくの傍らに座り込む。

「何か嫌なことでも思い出した?」

「別に」

 面白がるようなナナの態度が癪だった。

 ナナは隣に座ったまま、しばらく何も言わなかった。沈黙の中、ただ座り込んで沈んでいたぼくの傍らで、彼女は何も言おうとしなかった。彼女の意図がわからない。

 唸るように吹き付けた風が窓に吹き付けて、立て付けの悪いガラスが小さく震えていた。ガラス越しに伝わる冷気に、かじかんだ手を握り込める。

「……学校には」

 先にこの静寂が気まずくなったのは、ぼくの方だった。

 ナナがこちらを仰ぎ見る。興味深そうな眼差しだった。

「あまりいい思い出がない」

「へえ。いじめられっ子だったの」

「そんなんじゃない」

 ますます苦々しい顔をしたぼくに、彼女はにんまりと笑った。「嘘つき」という言葉を伴って。

 ぼくは何も答えなかった。

「人間ってよくわかんないなあ。パパもそう。なんでつまらないことで嘘つくのかしら」

 スカートの尻を払いながら、ナナが立ち上がる。意地悪な問いではあったが、彼女の口調はどこかあっさりとしていた。

「考え込むのもいいけど、早く寝なよ。明日は早いわよ。あの人の研究室に行くんでしょ?」

 ナナはこちらを一瞥し、自分のベッドへと戻っていく。

 静謐な夜の闇の中、カーテンの隙間に月の光が差していた。

「ねえ」

「なあに」

 振り返った彼女の瞳に、一筋の淡い光が反射して見えた。

「コーヒーメーカーの使い方、教えてくれない」

「だーめ。コーヒーなんか飲んだら眠れなくなるでしょ。今日はもう寝なさい」

 それじゃあおやすみ。彼女はぼくに背を向け、ひらひらと手を振る。

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