廃病院(2)

 自宅はいつも通り、時が止まっているように静かだった。

 室内は埃っぽい。照明をつけていないから、薄暗い部屋には寒々しい冬の日差しだけが差し込んでいた。

 自室でカメラを入手し、すぐに部屋を出た。ナナはリビングのビーズソファに座りながら、ぼんやりと景色を眺めていた。

 マンションの中層とはいえ、付近の建物よりもかなり高い。やたらと大きい窓から、灰色に風化した東京の街が一望できる。

「随分生活感がないのね」

「そう?」

 当然の話だ。ぼくも父親も、ほとんどこの家に帰っていない。

 冷蔵庫を開ける。中にはバターと水しか入っていなかった。ペットボトルのひとつを手に取り、一気に三分の一ほど飲み干した。胃の中に染みるような冷たさが心地よかった。

 ふとテーブルに目をやると、横長の封筒が置かれているのが見えた。見覚えのある付箋がその上に張り付けられている。音声ポストイット、だろうか。

 封筒の中身は電子チケットのコードのようだ。場所は電波塔の展望室。この家の窓からもよく見える。おそらく東京で最も空に近い場所だ。

 音声ポストイットを再生する。

『おかえり、ハル』

 父親の声が流れ始めた。

『君はきっと、帰ってくると思っていたよ。端末にも同じ情報を送っておいたけれど、見ていないようだから現物を置いておくね。父さんから君へのクリスマスプレゼントだ。初日の出を一緒に見る約束だったろう。それよりもずっと素敵なものだって見られる。お互いに忙しいんだし、たまには親子水入らずで過ごすのも悪くないだろ?』

 音声が途切れると同時に、ぼくは付箋を握りつぶした。

 都市再生化計画の執行は早くて元旦。半信半疑だった話が、急に現実味を帯びてくる。

 父親は一体何を企んでいる?

 何度も自問するが、答えは出てこない。


 午前中だったこともあって、ミヤの店はまだ閉業中だった。好都合だ。構わず中に入ると、カウンターに人影がひとり。高すぎる椅子に座って、ぶらぶらと足を揺らしていた。薫だ。

 荷物が小脇に置かれており、薫は厚手のコートを羽織っていた。

 彼女はちらりとこちらを一瞥し、すぐに視線を戻した。

 ナナはミヤを呼びに店の奥に入った。ぼくは薫の傍にゆっくりと近づき、一メートルほど手前で止まった。

「地下で君のお母さんを見つけたよ」

 ぼくに興味を示さなかった彼女が、勢いよくこちらを向いた。希望と不安が半々といった、必死に縋るような目だった。

「既に事切れていた。残念だったけど」

 薫は大きく目を見張り、それから深くうつむいた。握りしめた両手が震えていた。

「……やっぱり、そうだったんですね」

 泣き笑いのような声だった。

 大粒の雫がぼたぼたと彼女の目から滴り落ちていた。

 薫の嗚咽だけが店に響いていた。ぼくはポケットに手を入れたまま、泣く彼女をしばらく眺めていた。

 こんな風に感情を剥き出しにできる彼女のことが、どこか羨ましかった。

 ポケットの中に入れた手を出す。金具と鎖がじゃらりと鳴った。

 反射的に顔をあげた彼女は、ぼくの手の中のものに気がつき、ぼくとそれとを交互に眺めた。

 写真の埋め込まれたキーホルダーだ。幼少の頃の彼女と母親が並んで笑顔を見せている。付着していた血痕はできる限り拭った。

 言われるがまま、薫が手を差し出す。ほっそりとした小さな手には、まだ擦り傷が残っている。

 ぼくは彼女の手にキーホルダーを握らせ、手を離した。

「お母さんは、優しい人だった?」

 キーホルダーに見入ったままの彼女に、どうしてそんな言葉をかけたのかは、自分でもわからない。

 ぼくの問いに、彼女は首だけで何度も頷いた。とめどなくあふれる涙が、顎を伝って膝の上に落ちていた。

「ちょっとぉー、なに女の子泣かせてんのよ」

 店の奥から、ミヤがどたどたと顔を出す。「ミヤさぁん」と顔を上げた薫は、そのまま真っ先にミヤのもとに走り寄り、抱きついてわあわあ泣いていた。

「よしよし。もう、何言ったのよこの子にさあ」

「母親が死んでいたと伝えただけです」

「あのねえ、言い方ってもんがあるでしょう」

 つらかったわねー、とミヤは大袈裟な所作で薫を慰めていた。ぼくを冷やかに見ていたナナが、ばか、とこちらにだけわかるよう口を動かした。

 ミヤはスキニージーンズとピーコートといった出で立ちだ。赤いマフラーが巻かれている。薫の格好といい、今から外出するつもりだったのだろうか。ミヤの指には車のキーリモコンのようなものがぶら下がっている。

「それで、あなたたちはこれからどうする?」

 手は薫の背中を撫でたまま、ミヤが尋ねた。ぼくはレシートの発行場所の特定を彼女に頼んだ。

 場所は問題なく割り出すことができた。国立総合感染症ケアセンター。昔は大手の総合病院として幅を利かせていたようだ。樹化病の収束後、本格的に経営が立ち行かなくなり、院長が首を吊り自死したため廃業した。このレシートが院内の売店で発行された当時、国立総合感染症ケアセンターは治療の前線というよりも、郊外に末期患者を隔離する施設といった色が濃かったらしい。

 また、この病院はいち早くケアロイドを投入した実験的施設でもあったようだ。世間的にはこれは賛否両論だった。感染危険度の高い医療従事者の安全性を高めたものの、人の手による医療を望む層からの反発は、かなり大きいものだったという。

 情報が確定すると、ぼくらはすぐに出発した。奥の居住スペースを出て、地下へと続く通路を歩く。駐車場へ続く細い道は、駅地下に向かった時とは逆の方面に伸びている。

 地下の道は相変わらず湿っぽいにおいがした。黒色の虫が足元を通り過ぎ、薫が小さい悲鳴をあげてミヤにしがみついていた。

「私も薫を送り届けなきゃいけないから、悪いけど途中で下ろすわよ」

 ハイヒールの靴音を響かせながら、ミヤが言った。ようやく薫の親類と連絡がついたらしい。

「病院までは電車を使えば行けるから。運賃くらいは持ってるでしょう?」

「電車がまだ生きてるの?」

 ナナが驚いた様子でミヤの顔を覗いた。ミヤは鍵を指先でじゃらじゃら鳴らしながら、「金持ちの道楽よ」と苦笑を浮かべた。

「そういえば、病院のあたりに興味深い話があったわね。敷地の一角が砂地になったとか。その件についても、ついでに少し見てきてくれる?」

 似たような話を聞いた覚えがある。了承すると同時に、稼働式の駐車場の中にぽつんと、白いハイブリッド車が止まっているのが見えた。

 後部座席にはぼくと薫が座った。車内には会話もなく、カーラジオのスピーカーからがざついた音楽だけが流れていた。

 目的の駅には十分足らずで到着した。車を降りようとした時、ぼくの横に座っていた薫が、ぼくの袖をぎゅっと握りとめた。

「あの、……」

 彼女はうつむいていたが、意を決したように顔を上げた。まっすぐな眼差しだった。

「ありがとう、お母さんを見つけてくれて」

 どう返していいかわからなかったから、ぼくはあの人のように、少しだけ口角をあげた。

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