廃病院(3)

「この電車は有志の募金によって成り立ってるのさ! いわばマニアたちの情熱で走ってるってわけ。その立派なカメラで写真を撮りたいなら、好きなだけ撮っていってよ! 君たちのような若い子が電車に興味を持ってくれるなんて、嬉しいなあ」

 車掌と思しき男は、そう言って満面の笑顔をみせた。手馴れた様子で切符に穴をあけていく。白い手袋にはオレンジ色の切符がよく映えた。

「せっかくだから車掌室も見てみるかい? 運転席とか? それとも動力?」

 眼鏡の下で、男の目がらんらんと輝いていた。のべつ幕なしに説明を続ける活力に、ぼくもナナも圧倒されていた。

 二両編成の小さな車両は、昭和モダンを取り入れているらしい。赤色の長椅子と丸いつり革が、どこかレトロな雰囲気を思わせる。座席はいささかスプリングが強すぎたが、規則正しい揺れが心地よかった。

 先程ぼくらが降り立った駅は、改札がなかった。電子マネーも使えないらしく、ぼくとナナはありあわせの小銭で切符を買った。

 ホームにあるのは色あせたプラスチックの椅子くらいで、ホームドアはおろか、屋根すらついていなかった。駅地下が「駅」の最大値だとするなら、これはきっと最小値だろう。そう思わせるほどこぢんまりとした、孤島のような駅だった。

 こんな場所に、本当に電車が通っているのか。古ぼけた赤い車両がやって来るまで、正直なところ、ぼくは半信半疑だった。

 車窓の外を見る。崩れかかった街並みが、ゆっくりと流れていく。

「来てごらんよ、動力を見せてあげる。こっちだ」

 男がぼくたちを手招く。二車両目の奥に小さな扉があり、その奥がエンジンルームになっているようだ。

 小窓からは真っ黒な立方体が見えた。いたってシンプルな外見からは、中で何がどのように組み合って動いているのか、まるで想像がつかない。

「電車と言ってはいるが、こいつは動力に電気を使っていないのさ。代わりにSECT法を応用しているんだ。ほら、キューブをはじめ、大きな技術革新をもたらしたあのハイテクノロジーさ。何の略称だったかな、高エネルギー、ええと」

「超高エネルギー圧縮技術」

「それだ。おや、詳しいね」

 にやりと笑った口元から白い歯が見えた。

「SECT法の代表格はでかい物体を凝縮させる技術だけど、こっちは逆方向の信号を採用してるのさ。少しの燃料があれば爆発的なエネルギーを得ることができる。電気でモーターを回すよりよっぽど効率的で、環境への負荷も少ない」

 男は誇らしげに胸をそらす。そのまま彼の説明はとめどなく続く。

 横でナナが少しだけ、渋い顔をした。

 この復興線は、昔は貨物輸送が主として行われた路線だったらしい。今は病院までしか行かないものの、かつては街はずれの工業地域まで運航していたようだ。工業地域にはキューブ工場をはじめ、軽工業やハイテク産業を主とする多くの二次産業が集中していた。もっとも、現在実質的に稼働しているのは、キューブ工場と死体処理施設のみらしかった。

 工場労働者や貨物列車でそれなりの繁栄を見せたこの路線も、流行り病の煽りを受け、一時は廃線に追い込まれた。だが、マニアや篤志家の力を結集し、どうにか復活へとこぎつけたのだ。と、車掌と思しき男は情感たっぷりに語る。

「今は『砂漠』の話もあるし、あれを使えば利用者はもっと増える。そうすればまた、電車が交通インフラの主役をはっていた時代が戻って来るかもしれない。そういえば、ケアセンター前まで行くってことは、君たちも『砂漠』を見に行くの?」

 下世話な好奇心に満ちた目だ。

 電車がひときわ大きく揺れた。

「ええ、そうなんです」

 ぼくの代わりに、ナナが愛想よく答えた。


 駅舎を出て、空気に砂っぽさを感じた。喉が痛むような空咳。アスファルトの隙間に、風で流れた白っぽい砂が溜まっている。

「なんか嫌な空気ね。ざらざらしてる」

 ナナもぼくと同じことを感じているようだ。「フィルターの掃除が面倒なことになりそう」と、彼女は憎々しげにぼやいた。

 砂漠のようなものは、遠くの方にうっすらと見えていた。坂の頂上付近のようだ。

 丘陵には違いないが、土や岩石の名残は感じられない。砂のような淡い黄でも、雪や氷のような透明感があるでもない。漂白されたような人工的な白色。言いようのない違和感が胸にたちこめた。

「あそこが病院なんだよね?」

 不安に駆られて、そんな言葉が口をついた。国立総合感染症ケアセンターは、東京でもかなり大規模の終身医療施設だった。建物は決して小さくはないはずなのに、その影すら見えない。

「合ってると思うけど……」

 ナナも戸惑っているようだ。ミヤから地図情報を受け取っている以上、彼女が道を間違えているとも思えない。

 病院の敷地の入り口は、そう遠くない距離にあった。かつては芝が敷かれていたのだろう、枯草のゆるやかな丘が、遠くのほうまで続いていた。救急車用の道路や、スロープ、階段の類も、長く風雨にさらされて、自然の一部にすっかり溶け込んでいた。頂上から流れてきた白い砂がそこかしこに積もっている。

 ぼくは目に映ったものを手あたり次第写真に収めた。

 丘を登っていくうちに、砂漠は目前に迫っていった。同時に、灰色の瓦礫が目に入る。壁や天井だった何かは、何千年も前の遺跡のように、見る影もなく崩れていた。単なる風化とは違う、と一目でわかった。

 砂漠のような場所は、建物の残骸を中心に広がっていた。果ては見えるが、とても遠い。病院の建物だった場所が、丸ごと砂漠に変えられてしまったように見えた。

 中心に何かが残っているかもしれない。躊躇いを振り切って、ぼくは砂地の中に足を踏み入れた。

 水気の少ない新雪を踏んでいるようだった。ぎゅ、ぎゅ、と、細かい粉を押し固める感触。指で掬い上げてみる。砂特有のざらざらした手触りではなく、ふるいにかけられた粉を思わせる。少量をサンプルとして採取した。手に残った粉は瞬く間に風にさらわれ、指紋がうっすらと白く浮かんだ。

 一歩踏み出すたびに、靴の隙間から砂が入り込む。

 その時、足の下で乾いた音がした。

 何かを踏み砕いてしまったのだと、直観的にわかった。同時に、北風のせいではない寒気が背筋を走った。

 足をどかす。白っぽい棒状のものが砕けているのが見える。それは何本か平行に並んでいて、少しカーブがかっている。

 拍動が耳の近くで聞こえた。どうしたのハル、という声が、意識の外側で響いた。

 しゃがみこんで、手で砂を掃いた。地中に埋まっていたそれは、いくらもせず姿を現した。

 上手く息ができない。

 乳白色の棒だったものが、どんどん意味を帯びてくる。ぼくが踏み折ったのは胸骨だった、とわかる。

 球状の乳白色が見えた。風が砂塵を舞い上げ、すぐにその姿があらわになった。ぼろぼろに砕けた歯。眼孔と目が合った気がした。

 人骨だ。

 おそらく一体や二体という数ではない。

 顔を上げる。遠くの方で、目が何かをとらえた。

 塊、としか言いようのない何かだった。灰色のコンクリート、むき出しの錆びた鉄骨、鳥の羽。黒く乾燥した肉が、ぼろきれのように白い骨にまとわりついている。浮腫んで破裂して目玉の飛び出た野良犬が、原型を留めないほどねじ曲がっている。爛れた肉が半透明の液体を垂れ流し、てらてらと光っていた。

 色々なものがごちゃ混ぜになった塊。巨人の手が辺り一帯を搔き集め、ぎゅっと握りつぶしたような様相だった。腐敗物特有の強烈な悪臭がした。黒い何かが表面で蠢いていた。横切ったナナに反応して、蝿の大群がぶわりと飛び立った。

「ねえ、しっかりして、大丈夫?」

 ナナの声は焦りでうわずっていた。腰が抜けて動けないぼくを、彼女は強引に抱きおこし、無理やり砂漠の外へと引っ張った。

 ナナに手を引かれながら、走っていた。その間にも、あのおぞましい不吉な塊が、ぼくの脳裏に焼き付いて離れなかった。

 坂道を下る途中、ぼくは足をとられて派手に転んだ。坂を転がったぼくの身体は、地面に露出した岩や木の根にぶつかり、平坦な場所で止まった。無意識にカメラをかばっていたから、腕が痛かった。

 うつぶせに倒れていた。自分の身体を起こそうとすると、ちかちかと弾けるような眩暈と共に、ひどい痛みが全身を襲った。四つん這いの状態のまま動けなかった。荒い呼吸を整えようとしても、さっきの映像が頭に何度も浮かんで、余計に過呼吸になるばかりだった。

 眼球の落ちくぼんだ闇、ねじれた死骸の塊。芋づる式に記憶から引きずり出されたのは、駅地下で見た死体だった。目を見開きながら死んでいた女の血のどす黒さや、内臓の色まで、記憶は憎いほど鮮明だった。

 喉元に温かいものがせりあがってくるのを感じた。咄嗟に飲み込もうとしたけれど、無理だった。固形物が混ざったどろりとした液体が、乱暴に口の中から溢れ出た。

 胃酸のにおいに触発されて、胃が再びポンプのように動いた。涙と汗と寒気が止まらなかった。胃は空になるまで中身を放出して、これ以上吐くものもないのに、ぼくは繰り返しえずいた。

 いつの間にか、ナナの手が背中をさすっていた。吐き気は収まっていなかったが、出せるものを出し切ったからか、呼吸は少しずつ落ち着いてきた。

「ハル、ねえ、大丈夫なの? ひどい顔色」

 泣きそうな子供みたいな声だった。ぼくはうずくまったまま首だけで頷いた。吐瀉物の水たまりには、未消化の固形物がいくつも混じっている。昨日の夕飯だろう、と思った。消化機能がうまく働いていないのは、疲れのせいかもしれない。

「……少し、休んでても、いい」

「ダメなんて言うわけないでしょ」

 叱責するような口調だが、いつもの棘はなかった。

 辺りはひどいにおいだった。ナナに支えられながら風下に移動し、丘のふもとの、柔らかい枯草の斜面に横になった。少し水を飲んでじっとしていると、気分はだいぶましになった。

 カメラの動作を確認する。衝撃で多少のダメージはあったかもしれないが、動作に差し障りはないし、レンズも割れていない。ぼくはそっと胸をなでおろす。

「悪いんだけど、これで砂漠の中を撮ってきてくれない」

 ぼくのそばに座っていたナナに、カメラを手渡した。ナナは不安げに眉を寄せたが、「お願い」と念押しをすると、「わかった」と神妙な顔で頷いた。

「あたしじゃ、あまりうまく撮れないかもしれないけど」

「大丈夫だって」

「……あとで文句言うのは、ナシだからね」

 すぐ戻ってくる、と言い残し、彼女は丘の上へと駆け上がった。

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