廃病院(4)
風が汗ばんだ体に吹き抜ける。体温が奪われていく感覚。とはいえ、日差しがあるから幾分か暖かい。
擦れた枯草が音を立てる。風に乗って雲が流れていく。昨夜の雨など嘘のように、空はよく晴れていた。
ぼくは額の上に腕をのせ、空の向こうの方をぼんやりと見ていた。吐き気は収まりつつあったし、一時はパニックになっていた頭の中も、少しずつ凪いでいた。肺に入る冷たい空気が心地よかった。
この病院を訪れた急な砂漠化。砂に埋もれていた白骨死体。巨大な瓦礫と死骸の塊。あれら全てが何を示しているのか、考えても答えは浮かんでこない。
小さな栗鼠が腕に乗り、ぼくの動きを感知して素早く逃げ去った。
胸の中に燻ぶるものは、どんどん増えていく。そもそも、何もかもに謎が多すぎる。どの疑問も未だ断片的な手がかりしか得られていない。
思考が煮詰まってきて、ごろりと寝返りを打った。大きな切り株のようなものが視界に入る。見慣れた桜の伐採跡だった。かなり立派な桜だったらしいことが、切り株の大きさから伺えた。
そもそも桜花病については、研究室が襲われる前から再三研究してきたのだ。わかったのは、ソメイヨシノ種の腐食が糸状菌の変異種によって引き起こされたこと、クローン植物が災いして伝搬が急速に進んだこと。これは覆しようがない事実だし、ぼくや博士が指摘するまでもなく言われてきたことだ。
桜花病の流行った年は、大規模な豪雨災害が関東を襲った年でもあった。糸状菌の変異は常軌を逸する形にまで発展していた。感染は洪水が原因としても、単なる豪雨に糸状菌の変異を促すほどの力があるだろうか。
さらなる問題は、桜が伝搬したはずの樹化病患者の身体からは、糸状菌の類が一切検出されていないことだ。
樹化病に関してはあらゆる感染症の可能性が疑われた。電子ジャーナルの記事の一つで、検体の身体を隅々まで調べた解剖結果がまとめられていた。検体の身体からは、糸状菌の類はおろか、新種の細菌やウイルスすら検出されていない。抗原がわからなければ抗体の作りようがない。通常の感染症のようにワクチンを開発することもできず、患者はただ死んでいくことしかできなかった。抑制剤を手にできたごく一部の富裕層を除いて。
憂鬱な気分になって、手を枕に再び空を見た。雲の流れるのが速い。
手のひらを空にかざす。樹化病にかかった人間は、手足の末端から細胞がネクローシスを繰り返す。免疫不全。治癒能力の低下。海綿状脳症。自分の身体が目に見えて病に侵されていくのは、どんな気分だろう。
淡い空の中で、飛行機がうっすらと線をひいていた。
数分経って、ナナがカメラを片手に戻ってきた。ぼくが体を起こすと同時に、「興味深いものがあったよ」とぼくの隣に座り込む。真っ白な画像がいくつも続く中、彼女は画面をスクロールさせ、目当ての写真を探しあてた。
白い地面の上に、真っ黒な立方体が埋もれていた。
「これ……」
行きの電車で見たものと同じもの、に見えた。SECT法を用いた装置。光を返さない黒色の、その壁面には、細かい溝のようなものがあるようだ。砂が積もって、幾何学的な模様が浮かび上がっていた。
「境界面に近いところにあった。砂漠の中を探してみたら、全部で六個見つかったわ。どれも一辺が二十三.四センチの立方体。重さは六.三キロ」
なんのためにこの黒い立方体が置かれたのか? 答えは決まっている。この『砂漠』を作り出すためだ。おそらく死体処理と同じ要領で、『圧縮』によって周囲は粉末に変えられた。
不完全とはいえ、建物をまるごと消し去ってしまうほどのエネルギーとは。想像以上の代物だ。
では、何のためにこの場所が砂漠に変えられたのか? 証拠隠滅を図るため、という線が妥当だろうか。それにしては、随分と大袈裟だ。噂になって悪目立ちするのも目に見えている。
「帰って装置を分析したら、何かわかるかもしれない」
「持って帰る気? 言っとくけど、あれ、けっこう重たいんだからね」
ナナがあからさまに不満そうな顔をした。
「手がかりは多い方がいい」
「……わかったわよ」
彼女はぼくにカメラを返し、しぶしぶ踵を返した。急勾配にもかかわらず、軽やかな足取りだった。
彼女が装置を取りに行っている間、ぼくはカメラロールの中身を確認した。中心にぽつんと残った瓦礫。延々と続く白い砂の海。ぼくが踏みつけた白骨も、あのぐちゃぐちゃの塊も、その中に残っていた。そして、砂に埋もれた立方体。
SECTの恩恵は計り知れない。電車の動力やアンドロイドのコアといった多大なエネルギーの供給。何と言っても二大発明はキューブと死体処理だ。その上、土地を更地にすることまで可能にさせた。
ぼくはしばらく、ぼんやりとその黒い立方体を見ていた。胸の中で、何かが燻ぶっているような感覚があった。意識の外でぐるぐると思考が渦巻いていた。
遠くでエンジン音がした。旧式のガソリン車特有の、唸るような音だ。高台の病院からは、線路と並行してまっすぐ伸びた道路と、古いトラックが見えた。ぼくらが来た方角とは逆向き、工業地域の方に向かって走っている。
筑波に向かった時のトラックを思い出した。エンジンの揺れと、煙草のにおい。あの運転手の平時の業務は、死体か密輸品の相手、だったか。
その瞬間、何か天啓めいたものが、ぼくの身体を貫いた。
薬に使われる胎児。駅地下を埋め尽くしていたキューブの包装。キューブばっか食ってると馬鹿になるぞ。それは都市伝説だろ? 運び屋たちの台詞。樹化病は貧困層に特異的に広がった。SECT法を用いた死体処理は墓地の不足と高齢化の増進を受けて開発された。異常型プリオンの増殖。黒い装置と無数の死体。白い砂漠。たくさんの桜が切り倒された。たくさんの人が死んだ。
何かが頭の中でフラッシュのように弾けた。
目を見開く。呼吸数と心拍数が跳ね上がっていた。
こんな恐ろしいことがまかり通っていいのか。嘘だ、馬鹿げていると誰かに言ってほしかった。ぼくは何度も、脳裏に浮かんだそれを検証しなおしては、その綻びを必死に探した。
――もしこの仮説が本当なら。
呼吸を整える。風に吹かれてフードがぱさりと落ちた。
――ぼくたちのいる渦中は、途方もない暗闇だ。
ぼくは片手で顔を覆った。どうしてこんなに簡単なことに気が付かなかったのだろう。
ナナが帰ってきて、ぼくの肩を揺さぶるまで、ぼくは長いことうなだれていた。ぼくの憔悴を察したのか、彼女は「帰ったらゆっくり休みましょ。今はとにかく休息が必要だわ」とぎこちない微笑を浮かべた。
「……わかったんだ」
「え?」
虚ろに呟いたぼくの目を、彼女はこわごわと覗いた。
「まだ確証はない。だけど、繋がったんだ。色んなことが」
カメラをかばんに押し込み、力の入らない足で無理やり立ち上がる。一歩一歩、踏みしめるように前進した。身体が嫌に重い。血が引いていくような感覚。
「帰らなくちゃ。ミヤに確認してもらわないと、いけないことが……」
ぐらりと視界が揺れる。ものがぼやけて二重にも三重にも輪郭が重なる。ゆっくりと世界が傾いていく。倒れ込もうとするぼくの身体を、間一髪でナナの腕が受け止めた。
「あの本に書いてあったことは、本当だったんだ……」
「ちょっと、何言ってるの、しっかりして」
うわごとに近いぼくの声が、ナナの声に上書きされる。
「桜の樹の下には、」
桜の樹の下には屍体が埋まっている!
これは信じていいことなんだよ。
あの小説の冒頭。その全部を言い切る前に、ぼくの体力が尽きた。
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