廃車(1)
軽い栄養失調と貧血でしょう、とミヤは言った。
「昨夜食べたのも全部もどしちゃったんだって? 疲れとストレスが祟ったのかしらね。……食欲はある?」
首を横に振る。ミヤは眉根を寄せながら、「ちょっと待ってなさい。温かい飲み物を作って来るから」と席を立った。
喉元までかけられた毛布が重かった。どのくらい眠っていたのだろう。身体を起こそうとした時、部屋の扉が乱暴に開けられた。ナナだ。
「ようやくお目覚めね、お姫さま」
皮肉と怒気のこもった口調。「あんなところで倒れて、誰が運んだと思ってるの。大変だったんだから」と、ぼくを睨む眼差しが強い。
「……ごめん」
「ほんっと、いい加減にしてよ。せいぜい自分をいたわることね」
そこで、威勢のいいナナの言葉が止んだ。何か言いたげな彼女を前に、ぼくは「ありがとう」と言って先に道を塞いだ。
ナナはばつが悪そうに目を伏せる。そのまま彼女はベッドの余剰に腰かけた。スプリングが軽く軋んで、揺れた。スカートから伸びるすらりとした脚が目に映った。
やがてミヤがマグカップを持って戻ってきた。中には乳白色の液体が入っていて、湯気が甘い香りを漂わせていた。「ホット・バタード・ラム・カウ」と、呪文を唱えるようにミヤが言った。牛乳とラム酒を使った、英国の有名なカクテルらしい。
「体を温めるにはうってつけなのよ。少しは栄養も摂れる。あまりきつくは作ってないから」
酒を飲むことには抵抗があったが、「あなたもう十六でしょ。地下なら十歳の子供だって飲んでる。大丈夫よ」とミヤに押し切られた。暴論だ、と思う。
水面に息を吹きかけ、恐る恐る口を付ける。まろやかな牛乳の味の奥に、ふわりと洋酒の香りがした。優しい甘みが口の中に残る。
胃の中がじんわりと温まっていく。身体を支配していた緊張が、少しほぐれた気がした。
「それで、何がわかったの」
ナナがぼくを食い入るように見ていた。少しの間忘れかけていた焦燥が、再びぼくを襲った。
まだ確証はない。信用してもらえるかどうかも――何せぼくが自説を信用しきれていないのだから――わからない。尻込みする気持ちと、誰かに話すことで少しでも楽になりたい気持ちを秤にかけた。彼らは急かすようにぼくを見ている。
「……もう少しだけ待って」
「何それ。もったいぶる気?」
ナナが尖った声を出した。
違う、という声が、自分でも驚くほどに揺れていた。
「まだ整理がついてないから」
苛立ちのこもった眼つき。ぼくの嘘などとっくに見抜いていそうな表情だった。
怖いのだ、ということは自分でもわかっていた。単なる憶測でしかないこれが、口に出すことで現実味を帯びてしまうような気がした。
だからぼくは、できる限り証拠を探すつもりだった。ぼくの仮説を否定する証拠が出てくることを、心のどこかで願ってすらいた。
「そうは言っても、年明けまであと何日もないからねえ」
何か言いたげな様子はミヤにも伺える。時間がないというのはぼくも重々承知だ。「三つ頼みたいことがあります」と彼女を見上げると、短い前髪の下で眉がぴくりと動いた。
「あの装置の解析。それから、死体処理施設の倉庫や運搬車の損壊、あるいはそれに準ずるような事故が二〇四七年前後に起こっていたかどうかを調べてください。それと、ここ三十年程度の、アルツハイマーや精神疾患の罹患者数の推移も。お願いします」
「面白いわね。これはビジネスとしての取引かしら。対価は?」
冗談めいた口調。「ぼくもぼくの知っていることを提供します」と言うと、ミヤは挑戦的な目のまま、「いいでしょう」と言った。
「あなたはこれからどうするの?」
「一度研究室に戻ります」
いくつか調べたいことと、取りに行きたいものがあった。横でナナが露骨に顔をしかめた。
マグカップの中身もそこそこに、ぼくはベッドから立ち上がろうとした。が、「ちょっと待ちなさい」とミヤに肩を抑えられる。
「まだ回復しきってないでしょう。もう日が暮れてるし、今日は体を休めなさい」
歯がゆかった。今は少しの時間も惜しい。食い下がろうとしたぼくに、「今度倒れても運んであげないからね」とナナが釘を刺した。ぼくはしぶしぶベッドに体を戻した。立ち上がろうとした体は、確かにまだ少しふらついていた。
「それじゃあ私はオシゴトに取り掛かろうかしらね」
ミヤはそう言って部屋を後にした。ひとり残ったナナは、ぼくのベッドの隅に腰かけたまま、何か言いたげにこちらを見ていた。
カップの中身はぬるくなり始めていた。濃い味の牛乳を一気に飲むと、胃の中がまたぼんやりと温かくなった。
「いつまでそんな湿っぽい顔してるわけ。苔が生えそう」
相変わらず口が減らない。
マグカップを持つ手のひらが、じんわりと熱い。意識がふわふわと浮かんで、地に足がついていない感じがした。
「やたらと抱え込んでも、苦しくなるだけよ」
「……わかってる」
枕の中に倒れ込んだ。柔らかすぎる枕の中に、頭が深々と沈んだ。
これではまるで拗ねている子供だ、と思った。
「さて、そろそろあたしも戻るかな」
そう言って立ち上がったナナの手を、ぼくは無意識につかんでいた。手のひらだけじゃなく、身体の中心までぼんやりと火照っていた。
ナナが怪訝そうにこちらを見下ろしている。「酔ってるの?」と、馬鹿にするような半笑い。
「眠れるまで一緒にいて」
どうしてこんなことを口走ったのか、自分でもよくわからなかった。親にもこんなことをねだったことはなかった。
同時に、どす黒くねばついた欲望が、ぼくの腹の底を這いずっていた。彼女の首元に青白く光るロゴ。細い首の白さが目に余った。どくどくと脈打つ心臓がうるさかった。
「あらあら」
茶化すように言い、ナナはぼくの手を解いた。「怖くなっちゃったの?」
わかんない、と喉から出た声が、掠れた。
指先まで痺れるように怠かった。
「随分と甘えん坊だこと。子守歌でも歌ってあげようか?」
くすくすと笑いを帯びながら、ナナはぼくの髪を指で梳いた。「ほら、目を閉じて」と彼女の指が目元に降りてくる。言われるがまま瞼を閉じる。
やがて、囁き声にも似た歌声が響きだす。異国の言葉だろうか。耳馴染みのない、けれど穏やかな曲だった。
単純化してしまえば、彼女のこれもプログラムされた人工音声だ。聞いている分には、人間が歌っているのと大差ない。ぼくと彼女を隔てるものは、絶対的で、けれどひどく曖昧だ。
思考は次第に散漫になり、少しずつほどけていく。
昔。無感情な子供だ、何を考えているのかわからない、と言われた。トーキョーが伝染る、消毒しようぜ。ホースから水を浴びせられた。満点のテストを取り上げられて、こいつ機械なんじゃねえの、と、寄ってたかって廃油をかけられた。小さかったぼくは抵抗する手段も、世界の残酷さも、何一つ知らなかった。
ナナは目にいっぱいの光を含みながら、好きなものを語る。きっとぼくにはない光だ。
ぼくを人間たらしめているものは何だ。所詮、この腹に巣食っている、浅黒い欲望だけなんじゃないか。彼女の皮膚に手をかけて、全てを暴いてしまいたい、と思うような。
和らげな彼女の歌声が、次第に自分の意識とどろどろに溶け合って、混ざっていく。
不意に声が止んだ。ぼくが寝落ちたと思ったのだろう。ナナの近づくような気配がして、何かが額に触れた。
「おやすみなさい」
彼女の甘い声が、いつまでも耳に残っていた。
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