廃品(1)
『――症候群は、「樹化病」というその俗称の通り、身体の末端組織の裂傷・壊死という特異的な症状に注目がなされがちである。しかしながら、この病が精神を発狂へと導くということも、特筆すべき点である。
二〇五一年の医学白書によれば、罹患者のうち認知障害を示した割合は二五パーセント以上、統合失調・抑鬱・不眠などを示した割合は六五パーセントにも及ぶ。また、これら精神症状が出現した後、内臓疾患により先に死亡に至った場合を除いては、ほとんどに自閉や無同性無言が表れる。
自殺率の高さも特徴的である。病症により大きく傾向が異なるが、中期を過ぎた患者の四〇パーセント超が自死を図っている。うち未遂に終わったものは、その中の一割にも満たない。自殺者のうち奇行の兆候を示していたものは過半数にわたり、自殺の認定が下りていない不審死的な例(一)を含めると、全体で五〇万人以上が少なくとも該当している。(一)の例として以下のようなものがある。
事例一:七十代男性
頭部をガラス窓に強打し死亡(二〇四七)
事例二:四十代女性
水を張った洗面台を用いての溺死(二〇四九)
また、医療機関を受診していない貧困層(注:世帯収入が平均半分を下回る)の人々の中でも自殺者は増加の一途をたどっている。――(「精神病理学的観点から見る樹化病」二〇五九)』
バックアップしたデータは、わかってはいたが相当の量だった。十年分を超える電子ジャーナルはそれだけでも膨大な量になるが、まとめられていない実験データや画像ファイルも多い。隅々まで目を通そうとしたら、数年はかかりそうだ。
ジャーナルの中身は、樹化病に関するものという共通点こそあれ、内容はまちまちだ。患者の経過を追ったものから感染分布、市営病院の衛生環境から社会コミュニティーの崩壊まで。どれも興味深かったが、きっとじっくり読んでいる暇はない。斜め読みをするしかないのが惜しいところだった。
ようやく五年分を読み終わる頃には、もう日が落ちかけていた。ストーブを付けていても寒い保健室の中、同じ姿勢でずっと読み物をしていたから、指先がひどく冷えていた。
固いソファから体を離すと、背中の筋が張っているのがわかった。電子パッドを見続けていたせいか、立ち上がった拍子に軽い頭痛がした。
「どこ行くの?」
引き戸に手をかけようとしたぼくを、ナナが振り仰ぐ。彼女はぼくが読み物をしている間、ずっとギターを練習していた。相変わらず、あまり上手くはなかったけれど。
「少し外の空気を吸いに」
「ふうん。冷えないうちに戻ってきなよ」
彼女は興味なさげに言い、再びギターを抱え込んだ。
廊下は相変わらず埃っぽかった。東京よりも乾燥している気がするのは、きっと気のせいではないはずだ。軽く咳き込むのを手で抑え込んで、アルミ製のドアを開け、外に出る。途端、強い風にさらわれてフードがばさりと取れた。冷たい空気が突然肺に入ってきて、痛いような、息苦しいような感覚がした。
死んだように物音ひとつないグラウンドは、少しだけ東京に似ている。
しばらくして保健室に戻ると、ナナは誰かと通話をしているようだった。ぼくの顔を見るなり、視線をそらして別の誰かとの会話に戻ってしまう。
「今戻ってきたけど、代わろうか」
それから二、三言口にして、彼女はぼくに端末を渡した。
「……代わりました」
『こんばんは。君が市村治くんだね』
初老くらいの男の声。優しげな口調だった。
微かな緊張が体に走る。
「はい」
『東郷だ。よければこれからうちで夕飯でもどうだい。急な話で申し訳ないが』
君に見せたいものがあるんだ、と彼は言った。
窓の外を見た。厚い雲の隙間から、夜に落ちかけた茜色が覗いている。一雨きそうな怪しい天気だ。
『君も私に聞きたいことがあるんだろう?』
切り札のようにそう言い、それきり彼の言葉は止まった。
きな臭い話ではあるが、都合はいい。他に頼る物もない。ぼくは二つ返事で了承した。
話によれば、彼の家は西東京にあるらしい。
『少し遠いけど、そっちの方まで迎えを寄越すから。あと、一つおつかいを頼んでもいいかな』
「何でしょう」
『そちらでしか買えない電子部品があるんだ。急に必要になったんだが、代わりにお願いしたい。料金については心配ない。私の名前でツケておけば受け取れる。「バッカス」という店だ』
場所はナナに聞けばわかるはずだ、と告げ、『買い物が終わった頃にちょうど迎えがつくはずだ。店の前で落ち合おう』という言葉を境に、通話は切れた。
「パパも随分と無茶を言うのね」
ナナは呆れ顔だった。ぼくから端末を受け取ると、「準備ができたらさっそく出発しなくちゃね」とぞんざいに投げ捨てていた上着を手に取った。
店は私鉄の沿線にあるらしい。最寄り駅からひとつ先の駅、約五キロの距離。それなりにあるな、と呟いたぼくを一瞥し、ナナが上着に袖を通す。廃線にさえなってなければ、すぐに着いたのにね、と恨めしそうな台詞をこぼして。
ナナの上着の左胸には、「妹」という字を崩したようなロゴ。改めて見ると妙な服だ。
ぼくの視線に気が付いたのか、彼女が「何、なんかついてる?」と怪訝そうに顔をあげた。
「その服、不思議なセンスだなと思って」
ぼくの言葉に、ナナは胸元の「妹」を少し引っ張る。
「ああ、これね。何だと思う?」
いたずらっぽい目。「こっちにもあるよ、ほら」と彼女は自分の背中を示して見せた。背面に書かれているのはハートを囲うようなヘッドホンと、筆記体で書かれた「LITTLE SISTER」の文字。
「……ナナが末っ子だから?」
思い当たるものもなく、適当に口にする。「そんなわけないでしょ」と一蹴された。
「ヒントはね、ビッグブラザー。……知らない? 有名なSF小説に出てくる独裁者だけど」
いまいち釈然としないぼくの反応を尻目に、彼女は「いい加減出発しましょ」と重そうなギターケースを背負い、歩き出す。
引き戸を後ろ手に閉め、保健室を出た。
「『リトルシスター』はね、音楽監理局が台頭しだした時代のレジスタンスだったの。文化統制運動が進んだ時代に、独裁的な表現規制に対抗するべく組まれたロックバンドでね。中心だった羽山タカトが死んでからは自然消滅してしまったんだけど、後になって彼の息子が追悼ライブをして、その後の記念にグッズが出た。このスタジャンはその時に売られてた」
ナナの口調はいつになく熱っぽい。彼らのことは、曲をラジオで聞いて以来、すっかり好きになってしまったのだという。
好きなものを語る時のきらきらした表情が、どこか眩しかった。
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