廃都

 白い金属が幾何学的に組み合わさったタワーは、根元から見上げていても、先が見えないほど高い。薄暗い朝の中で、その白さがよく映えた。

 ポケットに入れたものを確かめ、入り口の自動ドアを抜ける。この状態になっても電力が維持されていることを不思議に思う。できてから五〇年近く経つ古い電波塔。今では傍受できる電波はラジオだけだが、そのおかげで東京の住人が外界と繋がれる。

 エレベーターはすぐに見つかった。電子チケットをかざすと、ガラス製の透明な扉がゆっくり開く。外の景色が楽しめるよう、ボタンと天井部を除き全面ガラス張り。東京に観光客がまだたくさん訪れていた頃の産物だ。

 ゆっくりと上昇していくエレベーターの中で、ぼくは眼下に広がる街を眺めていた。空はまだ濃紺に沈んでいたが、端から少しずつ明るみを帯びてきている。建物の群れがどんどん足元から遠くなっていく。

 天望フロアはがらんとしていた。エレベーターと同様に、ガラスでぐるりと覆われた壁面。昔は観光客でごったがえしていたと言うが、今ではその面影すらうかがえない。

 父親はすでに到着していた。ぼくの姿を認めると、目を細めて微笑する。

「久しぶりだね。少し背が伸びたんじゃない?」

 ぼくは返事をしなかった。特に気に留めた様子もなく、「いい眺めだろ。さらに高い回廊があるから案内するよ」と、父親はぼくに背を向ける。しばらくするとこちらを振り返ったから、ぼくはしぶしぶ彼の後をついて行った。


「いい思い出は作れたかい?」

 エレベーターに二人で乗るのは、想像以上に気詰まりだった。狭い密室。二人きりでいる、と思うと、強い圧迫感をどうしても意識してしまう。

「張り合うわけじゃないけど、父さんもハルと思い出を作りたかったんだよ。今まで父親らしいことがろくにできなかったからね。罪滅ぼしのつもりだ」

「東京を更地にすることが?」

 父親はぴくりと眉を上げた。「なんだ、知っていたのか。君はやっぱり優秀だね。さすがだ」と、何かを誤魔化すように言い繕うのも忘れない。

「……悪趣味だ」

「そうかな。父さんは気に入っているんだけど」

 父親はいたって穏やかで、動じた様子はない。

「東京が生まれ変わる瞬間に立ち会えるんだ。素敵なことだろ?」

 エレベーターが最上階に着く。ゆっくりと開いたドアから、父親が出て行く。

 天望回廊は先ほどの天望デッキより一〇〇メートルほど高所にある。地上ではあれだけ高く感じるビルさえ、地平線を象るためのジオラマのように見える。

 傾いだ観覧車。大きな川にまたがる鉄橋には、かつてはたくさんの自動車や人が往来していたという。

 人の営みのあった建物は、ほとんどが廃墟となっている。崩れかかった街並み。倒壊した建物も少なくない。苔が生えているところもあった。空っぽの骨組みだけが残った、鉄筋コンクリートの死骸。

 だけど地下にはたくさんの人が生きている。生きて、そこで生活をしている。ミヤや、サガミや、あるいは夕市で出会った老婆や、若者のような人たちが、何かを食べ、働き、眠っている。皮膚の下で血液が巡っているように。

 東京を更地にするというのは、彼らの命を乱暴に拭い去ることだ。違う? 父さん。

 皮肉なほど美しい街並みに目を奪われながら、たったそれだけのことを、ぼくは口にできずにいる。

「東京は、本当は強い街なんだよ」

 父親がそう口火を切った。

「先の大戦の時も、ひどい焼けようだったけれど、ゼロから立ち直った。スクラップ・アンド・ビルドで立ち上ってきたんだ。わかるだろう?」

 いつもの言い聞かせるような口調。窓の外に視線をやったまま、父親は眩しそうに目を細める。

「だけど、今の東京は飼い殺しなんだ。生かさず殺さず。街の体裁をなしてはいるけど、中身は無に等しい。抜け殻だ。父さんがしようとしているのは、それをリセットするってこと。膿を出し切らないと傷が治らないのと同じだよ」

「……地下や市街には、まだ大勢の人がいるのに?」

 やっとの思いで口にした言葉を、父親は意に介した様子もない。「言っただろう、ハル。膿は出し切らないと治らないんだ」と、物分かりが悪い子供に何度も言い聞かせるように、続ける。

 焦りのような、胸が詰まるような、不思議な感情が心の中に沸き立っていた。歯がゆかった。彼は、人を人とも思っていない。

「前任者は――当時はまだ都知事と呼ばれていたかな。彼は随分と回りくどいことをしたよね。そのせいで東京に深刻な傷を落とした。それは彼の落ち度だ。だけど僕らは割り切らなければならない。必要な犠牲もあるんだってことを――」

「人が死んだんだよ」

 声が上ずっていた。

「母さんだって、あの病気で――」

「そう。流れ弾に撃たれたようなものだね」

 ぼくの言葉を塞ぐように、父親が遮った。

 本来銃口の向いていた先は、下層にいる人々なのだろう。

 都市は老いていく。都市が拡大していく過程で、中心市街地、特に都心の外周をなす地域の住宅環境が悪化する。夜間人口が減少して、都市空間としての機能が低下していく。

 粗悪なバラックが立ち並ぶ様は他人事ではなくスラムだ。そこに住む人間はもれなく栄養状態が悪く、賃金も低い。貧困に喘ぎ、社会から遮断され、低賃金の仕事に身を窶していくしかなかった労働者。行政は対策を迫られる。食糧問題の解決と、彼らの雇用改善。そこには膨大な税金も要される。

 完全栄養食を騙った安価な補給食。消費期限もなく、少量で高エネルギーを得られる高機能食品は、その実、死体の成れの果てだ。

 キューブは貧困層を一掃するための手段として使われた。

 人肉食を繰り返せば病人が出ることなどわかりきっていた。

 プリオン病の症状はアルツハイマーに似ている。潜伏期間も長い。医療保険料も払えない人がほとんどだったから、病院にかかることも、ましてや異常型プリオンを検出するための髄液検査もできない。時間はかかるが、即効性と致死性の高い伝染病をばらまいたり食品に毒を混ぜたりするよりは、事態が露見するリスクも、自らに危険が及ぶリスクも少ない。

 誰にも知られることなく、東京は静かに貧困層を排除するつもりだった。

 皮膚が腐食し壊死する、なんてショッキングな病症は、意図せぬものだったに違いない。その病症のせいで、予定よりも急激に、本来なら火の粉の飛ばないはずの中上流層も巻き込みながら、東京という街は死んだ。桜も犠牲の手に絡めとられ、身体が異物を排除していくように、日本中で桜の樹が切られた。

 東京はトーキョーへと変わったのだ。決定的に。

「この街を崩壊に導いたのはね、ハル。下層にいる彼らだよ。治安の悪さや、煩雑さや、東京の悪印象のほとんどを作り上げたのもそう。ろくな教育を受けていないから、高度な仕事で社会貢献をすることもできないどころか、納税者を食いつぶしていくんだ。あれは東京の病魔だ。悪いものは取り去らないとどんどん腐っていく。樹化病が流行るよりずっと前から、東京は疲弊しきっていた」

 だからいっそのこと、下流に住む彼らごと排除しようというのか。

 横暴だ、と思う。死んでもいい人間と、生きる価値のある人間。両者にボーダーラインを引くのはあまりにも一方的で身勝手だ。

 ぼくのその非難を、父親は「きれいごとだね」と切り捨てる。美学や道徳や倫理だけでは、世界は立ち回らない。それに固執するのは君がまだ子供だからだよ――そう言って。

「それに、君にもその価値判断がないと言える?」

 父親は先日のバスジャック犯を例に挙げる。罪もない人を襲い、殺した人々。臓器や子供が売り飛ばされ、女は執拗に犯された。暴力団の流れ者や不法滞在者をはじめ、地下には多くの犯罪者が住んでいる。バスジャック犯も例にもれず粗悪で安価なドラッグの虜となっていた。現場となった首都高速道路には、ドラッグの粒がいくつも零れ落ちていた。

 薫の母親を殺したのも彼らだった。彼女は大きな腹が裂かれ、目を見開いたまま死んでいた。胎児を強引に摘出された彼女の服には、乾いた精液が付いていたことを思い出す。

「無論、バスジャック犯たちも東京に住む人間だ。今も地下でのうのうと暮らしているかもしれない」

 君は彼らを、本当に心から救いたいと思ってる? 彼らも等しく尊い命の一つだと、胸を張って言える?

 父親に気圧され、ぼくは思わず押し黙ってしまう。

「ほら。君のそれは正義じゃなく、耳障りのいいことを言いたいだけのエゴだ」

「……それでも」

 声が震えていた。たまらなく情けなかった。

「ぼくは東京を更地になんかしたくない」

 父親の前で意見を口にする。それだけのことが、どうしてこんなに怖いのだろう。

 死のにおいのする廃墟に誘われて、東京で写真を撮るようになったあの日から。カメラ越しにも肉眼にも、ぼくはたくさんのものを見た。

 博士と語り合った研究室。粉砂糖をまぶしたような星空。酒場の喧騒。トラックの揺れ。人が寄せ集まって生きている駅地下。パッチワークのような夕市のランタンの明かり。電気の通わないネオンサイン。ギターの音があんなにきれいなのも、誰かと心を通わせることであんなに温かい気持ちになるのも、別れがあんなに苦しいのも、ぼくは東京という街で教わった。

 ぼくはこの街が好きだった。

「そう。……残念だな。ハルはもっと賢い子だと思っていたのに」

 子供のわがままをいなすような目が、ぼくを見ていた。悲しげに肩を落とす父親を見て、胸が鈍く痛む自分が嫌だった。

「そういうところ、君は母さんとよく似ているね」

 あの人も困った人だったな、と父親は苦笑する。

 キューブを買わなければいけないほど食うに困っていたわけではない。だから、彼女が樹化病に感染する可能性は、本来はとても低かったはずだった。

 母親は慈善活動に打ち込んでいた。「病気で苦しんでいる人が目の前にいるのに、私だけが贅沢をするわけにはいかない」と、仕事の時は日常的にキューブを摂取していた。ぼくを身籠った時も、流産や死産の可能性が高いとわかっていて、日本ではまだ法的に認められていない代理母出産を強行した。「授かった命を無駄にはしたくない」と。

「世間知らずで、無知で、だけど頑なだった。あの人にはたくさん叱られたな。本当に君とそっくりだ」

 どこか遠くを見ながら父親が言った。目線の先には、今まさに夜が明けようとしている空があった。

 夜明けとともに信号が発信される、と彼は言った。

「君が東京にどんな思い入れがあるのかはわからないけど、止めることはできないよ。あれは、一度作動し始めたら中座できない」

 地平線から太陽の光が漏れ出ているのが見える。淡い青と仄かなオレンジ色の空。地面に敷き詰められた建物の群れ。スカイツリーよりも一回り小さな赤いタワー。渦巻く高架に数台のトラックが動いているのが見える。

 灰色の街の中で、空の色だけが妙に鮮やかだった。

 ひとたび圧縮が始まれば、今見ている景色も、空と太陽以外のものがすべて消える。

「そろそろだ」

 静かな声音。

 黄色くとろけた太陽が、ビルの隙間からゆっくりと顔を出す。光が少しずつ漏れ出して溢れていく。

 一瞬、宙を稲光が走ったように見えた。

 大きな爆発と振動が起こったのは、その直後だった。


 父親は呆気に取られていた。

「東京は砂漠にはならないよ」

 ぼくがそう口にする間にも、大きな爆発が起こって、地面が揺れた。

「どうして、こんなこと」

 父親はひどく傷ついたような顔をしていた。その間にも、五〇を超えるSECTのエネルギータンクは、外側から内側に向かって爆発を繰り返す。


 SECTには重大な欠陥があった。ひとたび処理が始まってしまうと、停止信号を傍受できない。止めることはできない。

 だけどそれは、あくまで停止信号の話だ。プログラムに介入ができないわけじゃない。

 エネルギーの圧縮と放出。

 その二つの信号を切り替えることは、理論上不可能ではない。


 かなり無茶な頼みだったはずだが、ミヤは間に合ったようだ。無理をさせたのが申し訳ない。あの人が無事でいてほしいと思う。

 街一つという膨大な質量を圧縮するためのプログラムが、逆向きの信号によって膨大なエネルギーを放出するものに変わる。一気に空気を吹き込まれすぎた風船が破裂するように、エネルギータンクそのものが爆発的に膨張する。

「こんなことしたって、君が危惧していたように、大勢の人が死ぬのには変わりないじゃないか」

 爆発は少しずつ近づいてくる。そのたびに天望回廊は揺れる。

「欺瞞だ、こんなのは。僕のやることをおかしいと非難する君も、十分すぎるくらい破綻している。正義でも何でもないよ。こんなのでたらめだ」

「わかってる」

 轟音にかき消されないよう、声を張り上げた。

 父親の言葉に揺れているなんて思いたくなかった。

 中心に向かって繰り返される爆発。足元が次第に不安定になる。ポケットのふくらみを手で確かめる。

「ハルは寂しかったんだよね。捨てるみたいに君を預けて、僕は仕事ばかりしていたものね。申し訳ないと思ってる。僕が悪かった」

 父親はぼくの下に駆け寄り、ぎゅっとぼくを抱き寄せた。小さい頃、叔父の腕に抱かれたことを思い出した。あの頃父親は仕事でずっと東京にいて、月に一度だけぼくに顔を見せに来た。

 いつからだっただろう。月に一度の父親の訪問を、心待ちにできなくなったのは。

「だからこんなこと今すぐやめにしてくれよ。なあ、いい子だから。頼むよ」

 縋りつく声がひどく弱々しい。

 この人の中ではぼくはまだ小さな子供であるらしい。そう思うとやるせなかった。父親にとってのぼくは、一人きりのマンションで父親を待っていたあの時から、少しも変わっていない。

 父親の腕は震えていた。何かを怖がっているみたいだ、と思った。今さら何が怖いのだろう。都市再生化計画が頓挫したことだろうか。それとも、ぼくに拒絶されることだろうか。

 洟をすする音。父親は泣いていた。

「父さんは、」

 君はあいつらとは違う。君は特別なんだよ。囁く甘い声に何度も縛られた。テストの点が振るわなかった日は露骨に溜息をつかれた。失望されることに常に怯えていた。言われるがままに飛び級を繰り返した。意に沿わないことをして見捨てられるのが怖かった。

「いつも自分の見たいようにしかぼくを見ないよね」


 ――昨日の夜、眠れずにいたぼくは、作りかけの爆弾の存在を思い出した。作業を再開したあの時から、何をするかはもう決めていた。


 ぼくはコートのポケットから紡錘形のそれを放った。すべすべとした床の上を弾み、いびつな塊が転がっていく。

 雷管はついていないから、放った程度で爆発することはない。

「ハル、何を――」

 ぼくは光子銃を取り出し、引き金に指をかける。

 父親の腕がいっそう強くぼくを抱きしめようとした。躊躇いなく引き金を引いた。

「ごめん、父さん」

 父さんの望むようには、ぼくはなれない。


 閃光と、耳を劈くような轟音の後。

 強い衝撃に吹っ飛ばされて、一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなった。


 ぼくは空を落ちていた。父親の身体は離れていなかった。ぼくを守るようにきつく回された腕。ついコンマ一秒前、大きな手で薙ぎ払われたような衝撃を思い出す。

 天望台が遠くなる。

 耳元で風を切る音がする。右足の膝から先の感覚がない。

 臓腑の浮く感覚。空がだんだんと広くなる。

 空には先ほどの衝撃で散ったガラス片が舞っていた。柔らかな朝日と、夜明けの雲の薄紅色を、ガラスは鏡のように映し出す。


 ――それはまるで、あの日目にした桜の花びらのようで。


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