廃工場(5)

 思わぬ来客が訪れたのは、ナナが落ち着いて少し経った頃だった。

 調べることがまだ残っているからと、ミヤはサーバールームに籠っていた。ナナは抱えた膝に顔をうずめたまま、動こうとしなかった。手持無沙汰だったぼくは、ずっと考え事をしていたけれど、いつの間にか座ったまま浅い眠りに落ちていた。

「ミヤ、来たよ」

 意識の外側で、ベルの音と声がした。女のよく通るまっすぐな声。どこかで聞いたことがある、と思いながら、それでも意識は再び眠りに沈んでいく。

 リビングのドアが開いた。人影の顔を見た瞬間、ぼくはまだ夢を見ているんじゃないかと疑った。眠気が冴え冴えと消えていく。

 上等なロングコート。背中の中ほどまである長髪。はっきりした目鼻立ちがミヤたちとよく似ていた。

 会ったことはないけれど、知っている顔だ。東京の駅地下や筑波の市街、ぼくが住んでいた千葉の街中でも、何度も見たことがあった。

 ゆっくりと顔を上げたナナの目が、彼女を捉えた瞬間、輝きを取り戻した。

「アン、帰ってきてたの?」

 女優、アン。東郷晃の一番目のオリジナル。


「パパが探していた映像、ようやく見つかったんだ。すぐにでもこちらに来ようと思ったんだけど、仕事が埋まってて。やっと休みが取れたと思ったら……もう、遅かったね」

 床に寝かせられた死体を見ながら、アンは困ったように微笑する。肩書は女優だが、軽快でフラットな口調は、どこか少年じみている。

「パパに挨拶をしたい」というアンの提言で、ビニールシートは剥がされていた。サガミがきれいに整えていたのか、東郷の死に顔は思っていたよりもひどくなかった。額の弾痕に目を向けなければ、眠っているようにすら見える。

「最後に話したかったな。パパも、ジロウも」

 三姉妹はしみじみと頷き合っていた。輪に入れていなかったぼくを、アンが不意に目に留める。どきりとして目をそらそうとしたら、「あのさ」と声をかけられた。

「パパは――東郷は、ずっと東京に何が起こったのかを追ってた。あの人は、本当にもう少しの所まで来ていたんだ。君が協力してくれたおかげでもある。まずはそれにお礼を言うね。ありがとう」

 アンが深々と頭を下げる。ぼくはぎこちなくそれに応じた。大袈裟とは言わないが、面と向かって言われるとどうも気後れする。

 私たちが作られたのは、彼の目的の遂行のためだったんだ、とアンは言う。

 ジロウ――博士の役割は、アカデミックな情報の検討と追究。

 ミヤの役割は、地下社会における情報ネットワークの構築と情報収集。

 ナナの役割は、博士の第二研究室の監視。

 アンはメディアの前線での情報収集と拡散。

 その役を演じさせるためだけに、東郷は四体のNH型試作機プロトタイプを作り上げ、量産型にも応用され得る基盤を構築した。生半可なことではない。ノウハウも体系化されていない中で、一からアンドロイドを作り上げる。それにはプログラミングから生体化学、物理演算、言語機能、デザインに至るまで、あらゆる分野での専門知識と技術が必須だ。

 どうして彼は、そこまでして東京に執着したのだろう。

 浮かび上がってきた疑問を、ぼくは口にする。

「答えはシンプルだよ。私怨さ」

 アンはあっけらかんと言い放つ。

「これの映像を見てくれる? 腑に落ちるはずだから」

 アンの丸い爪が、分厚いケースをぺらぺらとめくり、一枚のディスクを取り出した。

 ミヤがどこからか古めかしい再生機を引っ張り出してきた。ディスクを挿入すると、白い壁に光が四角く投影される。音質も画質も悪い、いかにも年季の入った映像だ。

 背の低いコンクリートの建物が映る。見覚えがある様相――博士の居た研究室と、おそらく同じ場所だ。絶え間ないフラッシュと、人垣。いくつも伸びたマイクやカメラのレンズ。

『東郷さん』

 怒号にも似た声が飽和した喧騒の中、かろうじてその言葉が聞き取れる。

『死体処理施設の倉庫火災ですが、被害の拡大にSECT装置が関わっていることについてどうお考えですか』

『開発者として責任は感じないんですか』

 糾弾するような質問の嵐。記者と思しき集団の隙間から、ちらりと、光の眩しさに顔をしかめる東郷の顔が見える。今よりも随分と若い。

「あの人はSECTの開発チームの第一陣にいたんだよ」と、アンが補足する。

 SECTは第二次エネルギー革命を呼び起こすほどの大発明だった。にもかかわらず、開発チームは簡単に頓挫した。

 液体燃料を積んだダンプが死体処理施設に突っ込み、延焼が三日は続いた倉庫火災。死体が流出したことで、衛生環境が悪化した市街は感染症の小規模な流行も起こった。

 電力会社と施設の側が責任をなすり合い、負けたのは施設の側だった。責任は強い方から弱い方へ流れ、末端の技術部へと回される。その最中でSECT法の欠陥が見つかったことが決め手となり、東郷は辞職に追い込まれた。

 膨大なエネルギーの圧縮と放出。その信号の切り替えはできても、外部からの停止信号の傍受ができなかったのだという。

 東郷はSECT法の使用権限と科学者としての生命を剥奪された。実際のところ、彼は売り払われたのだ。地位を追われる代償と口止めには、少なくはない量の金を握らされていた。

 東郷は西東京の山奥へと引き払った。アンドロイド制作に着工したのはその頃だ。退職金で細々と隠居のような生活をしながら、彼は第一作のアンを生み出す。その背後にはたくさんの失敗作たちの残骸がある。

「自分の手を離れた技術が何を引き起こすのか。もしかしたら、パパはそのことに責任を感じていたのかもしれないね」

 アンの指が二つ目のディスクを取り出す。

「これはパパが最後まで探していた映像。静岡の放送局の倉庫の奥深くで、この間やっと見つけたんだ。人目を巻くのに苦労した。人気女優ってのも困るね」

 冗談めかした笑み。再生機の蓋が閉まり、ジー、と虫が鳴くような低い音が鳴る。

 再び現れた四角い映像。今度は手持ちカメラのようだ。撮ったままの未編集の映像らしく、長回しのまま画面が小さく揺れている。

『二〇四七年十二月四日。午前十時。工場外部に人の姿は見えません』

 カメラを構えている本人であろう男の声は、震えている。どうやら寒さによるものだけではなさそうだった。

 カメラは工場の外観を映す。コンクリートの無機質な壁の隙間、冬らしい曇り空が覗いている。素人じみたカメラの動き。注視していると酔いそうだ。

 カメラは舐めるように周囲を見渡した。貨物を運ぶトラック。生ごみの捨てられたポリバケツ、野良犬。その傍に蹲る工員。

『すみません、××放送の者ですが』

 局名はよく聞き取れなかったが、耳慣れないものだということはわかった。

『この工場で相次いでいる失踪者に関して、何かご存知でしょうか』

 工員は無反応を貫いている。

 カメラは工場の入り口に向かっていく。多くはない人の出入りを目ざとく捉え、駆け足になったのだろう、画面が大きく揺れる。

『すみません』

 根気よく声をかけるものの、彼の言葉は継続的に無視されている。まるでそこにいないかのような扱い。

 すると、遠くから誰かを怒鳴る声が聞こえた。カメラの主は走り、画面がめちゃくちゃに乱れる。地面を蹴る靴音、マイクがぶつかる鈍い音。それに混じって、怒鳴り声はどんどん近づいていく。

『テメェみたいなクズを雇ってやってるだけありがたく思え! 次ふざけたことをやらかしてみろ、――』

 カメラが構えられ、徐々に焦点が定まっていく。工員の、息を呑むような短い悲鳴。胸倉をつかみ上げられた工員が、大柄の男に乱暴に投げ出される。

『おいコラ何撮ってんだ、見世物じゃねえぞ』

 放送局を言え、名前は、責任者に連絡してやる――男はそうまくしたてながら、カメラをひったくろうと手を伸ばす。

 カメラの主は逃げるように踵を返し、そこで一度映像が途切れた。

 数秒の間のあと、映像が再開する。どこかの道端だろうか。工員と思しき人影の首から下が移されている。

『失踪者について何かご存知ですか』

 カメラの主は何人かの名前を挙げる。工員は少し肩をすくめ、知らないです、とぼそぼそとした声で言った。

『……だ、だけど、あの、炉というのがあって』

『炉、ですか』

『出来の悪い人とか、悪いことをした人が連れていかれるんです。いい子にするためだって、チーフは言ってます。けど、そこに行った人、気づいたらいなくなってるんです。辞めてしまったと聞いているけれど――……』

 たどたどしい喋り声の途中で、ぶつん、と信号が途切れた。再生機は唸るような音を立て続けているが、もう何も映さない。

「この映像を撮ったのは、パパの親友だった人。東京の小さな放送局に勤めていたそうだよ」

 工場従業員の相次ぐ失踪を追っていた彼は、二〇四七年の十二月中旬、自らも不審な失踪を遂げる。仕事は軌道に乗ったばかりで、何の前触れもない音信不通だった。

 その直後、桜花病と樹化病が前代未聞の伝播を引き起こしても、東郷は東京から身を引かなかった。アンドロイド作家を担いつつ、洋菓子店の経営で着実に地盤を固めながら、継続的に調査を行っていた。

「パパの執着は復讐心とも言えるね。東京の暗部を洗いざらい暴く気でいたんだろう」

 オールマイティな頭脳と才能。天才と言って申し分ない彼は、自身の輝かしい未来と親友とをほぼ同時に失った。

 その絶望感がいかほどのものなのか、ぼくには想像すらままならない。

 アンは再生機の蓋を外し、ディスクを取り出す。円盤の片面の銀色に乱反射して、光がきらきらと弾ける。

 あのことを言うべきだろうか。ぼくは少しだけ思案する。彼の十数年の尽力が、すべて無に帰してしまうかもしれないこと。

 東京が、更地になってしまうかもしれないこと。

「あの」

 三人分の眼差しが、同時にぼくの顔に向けられる。


 最初に反応を示したのはミヤだった。

「なるほどね」

 そう溜息をついた彼女は、モニターからぼくに画像を見せる。監視カメラの拡大なのだろう、画質の荒い写真が数枚。かろうじて、地下のどこかであるとわかるその写真の中央には、どれも黒の直方体が映っていた。無機質なまでに平面の、情報量が少ない四角柱。

 砂地になったあの廃病院にも、似たようなものがあったことを思い出す。ミヤの話によれば、少なくとも五十を超える駅に、SECTのエネルギータンクが設置されているという。

「そうは言っても、設置されたのはずっと昔のことだけどね。電力の供給より安価な動力源として、経営悪化の中で試験的に導入されたけれど、実装しきる前に鉄道会社がもたなかった。だから今まで日の目を見れたことがない」

 位置をマッピングしたものを見せられる。東京の外周をぐるりと囲むように置かれているのは見事なものだ。ひとつひとつを線で結ぶと、蜘蛛の巣のような模様が現れる。

 地図の中心にあるのはあの電波塔だ。東京スカイツリー。父親から送られてきた電子チケットのコードは、端末の中に保存されている。

 東京中に信号を発信するには、うってつけの高所だ。

「させないわよ」

 ナナが声を張り上げた。

「パパの人生を無駄には、させない」

 頑なだった。ミヤが「あのね」と困ったようにナナをいなす。

「一度信号が発信されたら、止める方法はまずないのよ。知っているでしょう。SECTは一度始まった処理の停止信号を傍受できない。パパだって――」

 それが原因で研究職を降ろされた。先程、その話を聞いたばかりだった。

「でもっ」

 ばん、とナナの手が机を叩く。叱られた子供のような、今にも泣きだしそうな顔。

「あたし、東京をあんな砂漠みたいな場所にしたくない!」

「そんなの私だって同じよ!」

 ミヤの声はほとんど悲鳴だった。感情的なミヤを初めて見た気がした。

 あたりは水を打ったように静かになる。

 ナナもミヤも、気まずそうに眼をそらしている。アンは頬杖をつきながら、ただその場を静観している。

 ――方法は、ないわけじゃない。

 脆弱性はあるし、成功する可能性も薄い。成功したとしても、そこには大きな被害も伴う。

 それでも、何もかも白い灰になってしまうよりは良いと思えた。

「停止信号は送れなくても、介入そのものはできるのでしょう?」

 ミヤがはっとしたような顔をする。それから、眉を顰める。「あなた、自分が何をしようとしているのかわかってるの?」と、非難するように彼女が言う。

 ぼくは黙って頷いた。

 彼女たちこそ、わかっているのだろうか。

 都市再生化計画がこのまま実行されることは、ただ東京が更地になることだけを意味してはいない。そこにある物質全てが――命そのものすら、白くまっさらな粉末に変わってしまう、ということに。

「だけど、君は大きなものを背負うことになる。東郷の比じゃないよ。それはわかってる?」

 あくまで淡々と告げ、アンがぼくを見る。

 覚悟の上だった。見て見ぬふりはできない。父親が何をしようとしているのか知った以上、ぼくには責任がある。

「責任に潰されるかもしれないよ」

 ぼくの考えを見透かしたようにアンが言う。

「罪悪感に潰されるよりましです」と、自分に言い聞かせるように答えた。

 今更引き返すことはできない。

 今日は大晦日。実行は元日の初日の出。来年の初日の出はうんと特別なものになるよ、と父親は言った。父親はぼくと一緒に消えゆく街を眺めるつもりだ。東京に住む数多の人間は白い砂に変えられ、ぼくと父親の二人だけが残る。そんなことがあってはならない。

 ぼくは激しい感情に支配されていた。

 これはたぶん、怒りだ。


 午前五時。日はまだ出ていない。夜の終わりの空はすっかり澄んでいる。雲一つ浮かんでいない、きれいな初日の出が見られそうな空だった。心細そうに瞬く星と、深い藍色。ひしゃげた三日月が控えめに空に浮かんでいる。きれいだったから、一枚写真を撮った。現像することもないのに。

 出発しようとしたところで、ハル、と声がした。ナナだった。汚れはきれいに落とされていたが、相変わらず身体はぼろぼろだ。片膝の接合部がむき出しになっている。ドアに縋りつくように立っているのが痛ましかった。

 彼女はぼくを見たまま、しばらく何も言わなかった。泣き出しそうなのに無理に笑おうとしている、奇妙な表情だった。

「ひどい顔。寝られなかったの?」

 いつも通りの揶揄うような口調。軽口を叩ける程度には回復したらしい。

「まあね」と短い返事をした。

 緊張のせいなのか、昨夜は一睡もできなかった。ベッドで無意味に寝返りばかり打っているうちに、気づくと年が変わっていた。午前二時を過ぎたあたりから、寝ることを諦めた。途中だった作業を再開して、メモ書き程度ではあったが、頭の中の情報を整理して端末にまとめた。

 洗面台で顔を洗っていた時、自分の隈の濃さに驚かされた。ここ何日も寝不足が続いていたのだから当然の話なのだけれど。

「しゃんとしなよ。お父さんに会いに行くんでしょう」

 ナナの目には寂しさが滲んでいる、ように見えた。

 彼女はまるで鏡のようだ、と思った。こちらが読み取りたいように感情を読み取ってしまう。

 明け方の空気が冷たい。手指の先から、服の覆いきれていない皮膚から、体温は容赦なく奪われる。

「あなたはこれから英雄になるのよ。東京を救う、英雄」

 ナナはニッと口角を吊り上げる。いつも通りのニヒルな笑み。「そんなたいそうなものじゃないよ」と、ぼくもつられて少しだけ笑う。吐いた息が白かった。

「ひとつ訊きたいことがあるんだ」

「なあに」

「君は、東郷に利用されていたことを、恨みがましく思ったりしないの」

 東郷の手中にあるとわかった時。ぼくが利用されていたと実感した時。何とも言えない不快感が胸の中に沸き上がったことを、なんとなく思い出す。

 ナナはきょとんとした顔をする。どうしてそんなことを訊くのか、とでも言いたげに。

「全く。だってパパは私たちを愛していたもの」

 躊躇いなく言い切るのが清々しい。

「気をつけてね」

 祈るような声色。切れかけの街灯の仄かな光が瞬く。それに照らされた彼女の顔が、直視できなかった。

 うん、とただ頷いて、ぼくは彼女に背を向けて歩き出す。

 もう会うことはないはずなのに、さようなら、とは言えなかった。

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