7、

 埋め合わせをすることになって、別の日、わたしと治は画廊に赴いた。画廊は松本駅から近いところにあり、幸いバスに乗らなくても済みそうな距離だった。

 画廊は思っていたよりも狭かった。捉えどころのない、けれど印象深い絵がたくさん飾られていて、その中にはこの間検索して見つけたものもあった。近くで見ると筆のタッチしか目に入らないほど、厚塗りの油彩ばかりだった。教会に飾られていたあの絵は置いていなかった。

 一番目を引いたのは、両手で水のようなものを掬い上げている油彩画だった。高さだけでも一メートルはありそうな大きな絵だ。藍色の水と、それを掬おうとする指の間から、きらきらとした淡い色が零れ落ちていた。目を凝らすと、どうやら星のようだ。

 画廊を出た後は、小さなビストロで食事をした。自分の分を払おうと財布を出したわたしのことを、「お見舞い品をたくさん貰ったから」と、彼はどこか申し訳なさそうな顔で制した。

 何か触れてはならない、核心、のようなものに触れないようにしながら、わたしたちは途切れ途切れに会話をした。彼が最も饒舌だったのは、もっぱら写真に関することだった。叔父の影響でカメラを持ち始め、子供の頃からずっと写真を撮っているらしい。今度見せてくれませんかと訊くと、彼は曖昧にはにかんで、いい、とも、嫌だ、とも言わなかった。初めて病室を訪ねた時も、似たような反応をされたことを思い出す。

 ハプニングが起きたのは、帰路だった。行きに使った電車の改札が塞がれていた。何事かと思ったら、どうやら人身事故で電車が止まっているらしい。復旧のめどはまだ経っていないらしく、振替のバスが出ているからと、駅員にバス停まで案内された。

 バスは長蛇の列だった。わたしたち二人が並んでいる後ろにも、いくらも経たないうちに、たくさんの人がぞろぞろと連なった。

 列は少しずつ前に進んでいく。わたしは気が気ではなかった。血の気が引いていくのが自覚できるほどで、一歩バスの入り口に近づくごとに、地獄に向かう道を進んでいる気分だった。

 バスに乗りたくない、とは言い出せなかった。電車も止まっている。松本から家まではそれなりに距離があり、タクシーで帰るのは高いお金がかかる。もう並んでしまっているし、後ろにもこんなに人がいる。治にも迷惑になる。

 冷汗が止まらなかった。そうこうしているうちに、わたしたちは押し込まれるようにバスに乗り込んだ。空気の漏れるような音と共にドアが閉まる。ゆっくりとバスは走り出す。手すりを強く握るあまり、手のひらがいつもより白くなっている気がした。

 耳鳴りのような音が常に頭で響いていた。気持ち悪い。頭が痛い。足がすくんで動けなくて、気づくと呼吸が浅くなっていた。

 すみませんすぐに下ろしてくれませんか。治が早口で運転手に告げる。走っているバスの中、立っていることができなくなって、わたしは手すりに縋りつくようにしゃがみ込む。

 周囲にざわめきが広がったのがわかった。吐いてはダメだ迷惑になる、と抑えようとするほどに、吐き気はますますひどくなる気がした。

 手すりを強い力で握るわたしの手の上に、誰かの手がそっと置かれた。触れた手のひらが温かかった。治の手だ。直接見たわけではないけれど、そう思った。

 バスが停車するまでの時間が、永遠に続くもののように感じた。やがて路肩にバスが止まり、前方のドアが開いた。ふらふらとした足取りで、バスを降りる。

 降車した途端、道端に座り込みそうになる。蹲るわたしの手を引いて、彼がわたしをベンチに座らせる。

「少し待ってて」

 治はそう言ってどこかへ消えた。恐怖から解放された安堵感で、緊張がどことなくゆるんだのだろう、彼を待っている間に何回か眠りにおちかけた。

 彼は水を買ってこちらに戻ってきた。ありがとうございます、と力なく頭を下げる。

 喉を通っていく冷たい液体が、乾いた身体にじわじわと染みこんでいく。

「PTSDだろうね。近いうちに病院に行った方がいい」

「……いいんです。普段、あまりバスに乗ることもないですし」

「よくないよ」

 短く言い捨てるような言い方。機嫌を損ねてしまったのかもしれないと思ったが、恐る恐る顔を上げた瞬間、そうではないと悟る。

「……まるで自分が傷つけてしまったような顔をするんですね」

 彼は何も答えない。

 見ていられなくなって、わたしは自分から目を逸らした。

 あの顔はついさっき見たばかりだった。人身事故の影響で電車が止まったと知った時、一瞬だけ浮かべた表情。痛みを堪えるようなあれは、困惑と悔恨だ。

 わからなかった。何故彼はあんなにも、痛ましいほどに悲しげに目を伏せるのだろう。

「君にとって……よくないのかもしれないね、ぼくは」

 東京を思い出させてしまうのかも、と彼は言った。わたしは黙って首を横に振り、膝の上でこぶしを固く握る。

 彼と対峙するたびに、不思議なほど歯がゆい感覚に襲われる。彼のことは決して嫌いではないのに、言語化できない苛立ちが澱のように蓄積していく。

「どうして……」

 声が震えた。これは怒りによるものなのか、それとも悲しみか。

「どうしてそんな風に、全部自分の責任にしようとするんですか?」

 ちらりとわたしを見た彼に、あまりたじろいだ様子はない。それを見て余計に、わたしの中にある、ぐちゃぐちゃした気持ちが煮え立つのを感じる。

「そんな風に自分を責めても、何も解決なんかしないのに」

 俯いたままの彼に、次から次へと言葉が溢れてきて止まらなかった。

「償いきれない罪ばかり背負うのは楽しいですか」

 八つ当たりだ。わかってる。わたしが彼にぶつけているのは、彼に対するものではなく、自分に対するふがいなさと怒りだ。

 いつの間にか流れ出ていた涙が顎の先から滴り落ちて、なんで自分は泣いているんだろう、と思う。

「貴方のしていることは贖罪じゃなくて、単なる自己満足です。痛みに酔っているだけです。そんなの、誰も報われないじゃないですか……」

 消え入りそうな声になった。本当はこんなこと言いたくなんかなかったのだ。子供じみた言い訳を心中で重ねながら、「ごめんなさい、わたし」と顔を覆った。

「……どうして謝るの?」

 顔を上げられなかったから、彼がどんな表情をしているのかはわからない。だけど、なんとなく、唇の端を吊り上げるだけの、あの乾いた微笑を浮かべているんだろうな、と思った。

 いつの間に呼んでいたのだろう、無人タクシーが路肩に停まる。彼の手に引かれるがまま、タクシーに乗り込んだ。彼がタッチパネルを操作し、ゆっくりと車が走り出す。

 車内は終始無言だった。重い沈黙が下りていた。彼はしゃくりあげるわたしの手を、何かの罪滅ぼしみたいに、ずっと握りしめていた。


 一度近くなったように思った治との距離は、すぐに元に戻った。

 彼は週に一度、午後の決まった時間に薬局を訪れた。患者と薬剤師の関係になってしまったわたしに、治はそれ以上のものを決して求めてこなかった。わたしは黙って抗鬱剤を調剤し、一回二錠、と書かれた紙と一緒にビニール袋に入れた。

 ある日を境に、治は薬局に来ることもなくなった。精神系に働きかける薬を急に絶つのは危険だ。様子を見ながら、少しずつ量を減らさなければいけない。強い抗鬱剤はそれだけ体への負担も大きい。会えないことよりも、薬を取りに来なくて大丈夫なのかということの方が気になった。

 もう一週間経って、意を決して「薬を取りに来なくて大丈夫ですか?」とメッセージを送った。半日以上過ぎてから、「明日取りに行く」と返信が来て、だけど次の日も彼は来なかった。さらにその次の日、「申し訳ないけど、家まで届けに来てほしい」と連絡があった。とても体調が悪くて、外に出られないのだと。

 急に薬を絶ったのだから、ある意味当然とも言える。仕事が終わってから、教えられた住所へと赴いた。頼まれてもいないのに、スポーツドリンクとレトルトのお粥を買った。彼の住まいは駅の近くにある、古くも新しくもないアパートだった。

 インターホンを押すと、しばらくの間の後、ドアが開いた。

 つい直前まで寝ていたという風貌だった。襟元の伸び切ったシャツと、裾の長いスウェット。髪は櫛を入れた様子もなさそうで、顔色がひどく悪い。

「あの、大丈夫ですか」

 わたしがビニール袋を差し出すと、彼はひったくるようにそれを受け取り、「伝染るとよくないから」と言うなりバタンとドアを閉めてしまった。風邪か何かのような言い方をしていたが、そうでないことくらい察しがついた。

 うっすらと何かを期待をしていた自分が恥ずかしかった。

 怒っているのかもしれない。当然だ。あんなに無神経なことを言ったのだから。

 何を食べても美味しくない、ということに気が付いたのは、その日の夜だった。おばあちゃんが作ってくれた料理は、すごく大好きなのに、すごくおいしいはずなのに、固形物を口に入れた感触しかしなかった。

 いつも通りに炊いたごはんが、嫌にもそもそとしたものに感じる。一口を呑み込むのに時間がかかって、麦茶で無理やり飲み下す。ごくん、と大袈裟なくらいに音が鳴る。

 味気がない。

 箸が止まってしまったわたしのことを、おばあちゃんが心配そうに覗き見る。

「薫ちゃん、なんだか顔色が悪いけど、ひょっとしてお風邪かい?」

「ううん、違うの。……少しね、気になってることがあって」

 あんなに美味しいおばあちゃんのごはんが、もう食べられそうにない。

「わたし、ものすごくひどいことを言ってしまった人がいて」

 傷つけてしまったかもしれない。

 怒らせてしまったかもしれない。

 そう思うと怖くて仕方なくて、震えを握り込むように箸を持つ手に力を込めた。

「本当はそんなこと、思ってなかった、のに」

 声が震える。

 情けない。情けない。泣きたくなんかないのに。

 味を感じなかった口の中が、ひどくしょっぱくなっていく。

 どうしてわたしはこんなに弱いんだろう。嫌になる。

「つらかったね」

 おばあちゃんはいつものにこにこ顔のまま、わたしの頭を優しく撫でた。

 つらかったのはわたしじゃなくてあの人だ。わたしは加害者なのに、どうして泣いているんだろう。わたしは首を横に振る。わたしは彼を傷つけた。あれは故意だった。悪意があった。

 最低だ。

 東京から来たばかりのときも、わたしが周りにうまくなじめなかったときも、失恋をしたときも、おばあちゃんはこうやってわたしに優しくしてくれた。わたしがまっすぐ歩いてこられたのは、あの人と、それからおばあちゃんのおかげだ。

 そう思うと、余計に胸がきりきりと痛んだ。

 わたしはいつだって泣いていた。十三歳のあの時で、時間が止まってしまっているみたいだ、と思った。あの頃わたしは非力な少女で、だけど今だって、ひとりでちゃんと歩くことすらできない。

 にこにこと微笑んだまま、おばあちゃんは牛乳を温めてくれた。「これだったら、薫ちゃんも飲めるかもしれんからね」と、皺だらけの手でマグカップをことりと置いた。

「薫ちゃんは、その人のことが本当に好きなんやねえ」

 涙ばかりが、とめどなく溢れた。

『あの子ね、泣かないの』

 どうしてこんなことを、今頃思い出すのだろう。

 泣きたくなくても涙が出てくるのだって、嫌になるくらいつらいのに。どんなに泣きたくても涙が出てこないのは、それに比べてどのくらいつらいのだろう。


 次の日、差し込む朝の光の眩しさで目が覚めた。

 瞼の腫れがひどい。周期的な頭痛。子供の頃はどんなに泣いてもなんともなかったのに、今ではこんなに後に引く。心は未熟でも、わたしの身体は少しずつ、着実に歳を重ねている。

 頭に鉛を詰め込まれたようだ。カーテンを思い切り開けると、清々しいはずの朝の光が、刺さるみたいに痛かった。

 空は晴れていた。

 冬の間、この地域は雪がよく降る。分厚い雲が空を覆いつくすせいで、滅多に晴れ間を見ることもない。少しずつ晴れ間がのぞいて、溶けた雪で地面が濡れているのを見たりして、やっと冬が終わったのだ、と思う。

 寝乱れたベッドに座り込んだまま、わたしはしばらく動けずにいた。

 彼もこの空を見ているのだろうか、と思った。

 皮肉なほどすっきりと晴れている、この空を。


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