6、

 次に会いに来た時は、病室はもぬけの殻だった。

 緊張していた反動で、長い溜息が口から漏れた。荷物が置きっぱなしだし、古めかしい文庫本が枕元に置いてあるから、退院したわけではなさそうだ。飲みっぱなしの薬のゴミと、半端に残ったグラスの水。白いベッドの近くには杖も立てかけられている。そう遠くには行っていないのだろう。

 待っていればすぐに戻ってきそうだけれど、なんだかそれも気後れした。日が傾いてきていたし、重要な用事があったわけじゃない。あのお店で買って持ってきたシュークリームも、おばあちゃんと二人で食べてしまおう、と思った。紙袋に入った細長い箱が、少しだけ重さを増した気がした。

 わたしは昔から、こういう些細な行き違いが多い。

 三十分かけて並んだケーキが、わたしの三人前で売り切れるとか。なくしたと思って新調した体温計が、翌朝になってひょっこり出てくるとか。いつも折り畳み傘を持ち歩いているのに、忘れた日に限って雨が降るとか。巡り合わせの悪さは自分でも嫌になるほどだ。

 なんだか憂鬱な気分になった。肩を落として帰ろうとするわたしを、不意に、通りがかった看護師が呼び止める。

「市村さんなら、この時間は屋上にいらっしゃると思いますよ」

 にこりと笑いかけられて、小さく会釈をした。看護師はきびきびとした足取りで去っていく。

 屋上。飛び降りでもするんじゃないかという悪い想像が頭を掠めたけれど、すぐに打ち消す。「この時間は」という言い方が、心にひっかかっていた。

 わたしは紙袋を携えたまま屋上へと向かう。病院は八階建てだったけれど、エレベーターを待っているのももどかしかったし、患者でも医者でもないわたしがエレベーターを塞ぐのはなんだか申し訳ない気がした。運動をすることもあまりないし、丁度いい。

 そんな気持ちは、四階を過ぎたあたりからきれいに消え去った。重い足を無理やり引きずるようにして階段を上った。変な意地を張らずにエレベーターに乗るんだった。自分の身体に思っていた以上に体力がないことを思い知らされる。

 八階まで登りきるころには、とっくに息が切れていた。ぜえぜえと肩で息をしながら、身体が随分と火照っているのを感じた。

 屋上のドアは施錠されていなかった。精神病棟もあるのに、随分と不用心だ。そう思ったけれど、ドアを開けて腑に落ちる。高い柵がぐるりと張り巡らされている。

 熱を持った体に、夕方の風がすうっと涼しかった。屋上の床はざらざらしていて、日陰と同じ形に浅く雪が残っていた。風が吹くたびに凍結防止の白い粒がころころと動いた。

 治はすぐに見つかった。給水塔の上、子供のように足を曲げて座っている。ぼんやりと景色を眺めているようだ

「何してるんですかー?」

 遠くから呼びかけてみると、彼が少しだけ首を動かして、こちらを見た。遠くだったから、表情はわからない。

 何か、彼が言ったのが聞こえたが、風にさらわれて内容が聞き取れなかった。

 わたしは給水タンクに近づいた。金属でできた円柱形のタンクには、脆弱そうな梯子がひとつ付いている。よじ登るようにしてタンクに上った。思った以上の冷たさが手に沁みた。

 膝をついたまま顔をあげた。茜色の光が目に刺さる。

 大小の建物が連なる街並み。沈みかけの太陽と薄く輝く星。遠くに見える山の稜線。山肌にはまだ白いものがうっすらと残っている。窓あかりと車のテールランプ。

 もう十年はここに住んでいるのに、この街にこんな表情があることを、初めて知った。

 景色から目が離せなかった。

 ぱしゃり、と音が聞こえた。シャッターを切る音だ。少し間をあけて、もう一つ。

「来たんだ」

 なんの感慨もなさそうに言って、彼がレンズをぐるりと回す。重そうなカメラを支える手首の細さが、ひどく危なっかしく見えた。

 立ち上がるのは怖かったから、這うようにしながら、彼から少し離れた場所に座った。眼下で動いている人が米粒みたいに小さく見えた。一度高さを意識してしまうと、さっきはあんなにきれいだと思っていたのに、どうしても足がすくんでしまう。

 彼の目はファインダーを注視したままだ。少しだけ目を細めて、彼は指に力を込める。

 ぱしゃり。

 心地いい音だ、と思った。

「写真、お好きなんですか」

「うん」

 いつも通りの抑揚がない声。だけど少し熱を持っているのがわかる。

 やがて彼はゆっくりとカメラを下ろす。

 汗が冷えてきたのか、気温が下がってきたのか、風がずいぶんと冷たくなったような気がした。足首を擦り合わせながら、薄寒さを紛らわせる。ちらと隣を見ると、膝をくの字に曲げた彼の足首に、人の皮膚ではない、金属のようなカーボンのような質感が覗く。

 父親と共に彼は右足を失った。もっといい義足もあるだろうに、彼はあえて原始的なものを選んだ。その理由に深い悲しみが滲んでいることを――それが贖罪なのだということも、わたしは知っている。彼なりのけじめなのだ。

 ――不器用な人。

 わたしの目線に気が付いたように、彼がこちらを一瞥した。

「杖、下にありました。なくても平気なんですか」

「少しなら」

 ぼそりと言って、彼は景色に目を戻す。

「リハビリを真面目にやっていたら、杖なしでも大丈夫だったんだけど」

「サボったんですか?」

「うん。不良患者だったから」

 不良、という言葉と彼があまりにもミスマッチで、わたしは思わずくすりと笑った。

 彼も少し、笑い返したような気がしたけれど、逆光でよく見えない。

 わたしの手首にかけた紙袋に、治が一瞬だけ目を向けた。シュークリームを買ってきたのだと説明すると、「食べてもいい?」と彼が手を差し出してくる。空が暗くなるにつれてどんどん寒くなってきていて、屋内に入りたい気持ちもあったのだけれど、わたしはごそごそと紙袋を漁って箱のテープをはがした。

 生地のやたらしっかりしたシュークリームを、両手でそっと取り出す。ナッツやチョコレートが上の方にかかっていて、触った折に体温で溶けてしまったのか、少しべたべたする。

 片手でそれを受け取った彼が、一口で三分の一くらいを一気にかじった。

「食べなよ、薫も」

 薫、という彼の声の響きが、羽毛でふわりと撫でられたようにむずがゆかった。

 カスタードの多いシュークリームに悪戦苦闘している間に、どんどん日は落ちていった。屋上でものを食べたことなんかないのに、こうやって給水タンクに座って、並んで甘いものを食べているのは、なんだか高校生みたいだなと思った。随分と年齢不相応なことをしている気がした。

「今度、松本で画廊があって」

 不意に彼が口を開いて、わたしはぴくりと顔をあげる。

 その隙に、膝の上にのせていたペーパーナプキンが、どこかに飛んで行ってしまう。あ、と思った時には、もう見えないほど遠くに飛ばされていた。

 狩岡久人、という名前を、治は口にする。聞いたことのない名前だったが、その道では名の知れた画家らしい。羽山タカトというミュージシャンの親友で、アルバムのジャケットに何枚も絵を描いていた、という話。画家本人は知らなかったけれど、羽山タカト、という名前はなんとなく知っている。わたしが生まれるよりずっと昔の歌手。カウンター・カルチャーの代表格。治はそんな曲も聞くのかと、少し意外に思う。

「叔母が仕事の関係でチケットをもらったらしくて。薫ちゃんと行ってきなさいって君の名前を出しながら押し付けてきて……なんで君のこと知ってるのかわからないんだけど」

 言い訳を重ねるような口調。なんだか早口なのは、いつもの彼らしくない感じがした。

「よかったら、……迷惑じゃなければ」

 その言葉が誘いだと気づくのに、少しだけ時間がかかった。

 

 帰ってから、治の言っていた画家の名前で検索をかけた。

 狩岡久人。端末の画面に表示された絵は、抽象画のような、宗教画のような、淡いのに仄暗い雰囲気の絵ばかりだった。教会に寄贈されている彼の代表作は、高さが二メートル、幅が三メートルを超える大きな絵だった。蓮華のような大ぶりの花がいくつも咲いている、中心にもやもやとした輪郭のようなものが描かれていた。解説を読むと、どうやら聖母子であるらしい。

 画廊に行く日をすごく楽しみにしていたのに、当日、わたしは絵を見ることができなかった。寒風が祟ったのか、お腹に来る重たい風邪をひいてしまった。

 ごめんなさい、ごめんなさい。楽しみにしていた日に風邪をひいたのが本当に悲しくて、悔しくて、わたしは端末越しに何度も彼に謝った。

「別に謝ることじゃない」

 そんな風に言う彼が少しだけ悲しそうな声色をしていることは、わたしにだってわかっていた。

 こんな時にまで巡り合わせの悪さを発揮しなくてもいいじゃないか。枕の中に顔をうずめながら、自分の体質、みたいなものをひたすら呪った。


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