5、
「市村治さん、なんですよね」
念を押すように、わたしは尋ねる。彼は声も低くなったし、身体も細いながらごつごつとした男の人のものになっている。それでも少年だったあの頃の面影は色濃い。例えば、陰りのある表情。例えば、凪いでいるのに、少しだけ悲しそうな瞳。
「……そんなこと知って、どうするの」
不機嫌そうな言い方だったから、思わず「すみません」と肩をすくめた。
「別に謝れって言ってるわけじゃない」
ますます不機嫌そうになって彼は言う。
知ってどうするの、と聞かれても、わたしは何と答えたらいいのかわからなかった。彼が市村治であると確認して、だからどうしようというのだろう。何か下心があるわけではないし、今はアイドルや神様のように崇めているわけでもない。
だけど、ただ知りたいと思うことは、間違っているだろうか。そう訊きたい気持ちが、後ろめたさに飲み込まれていく。
「わたしの憧れだったんです。だから、こんな風に会うなんて思わなかった」
言葉を砕きながら、わたしは暗に尋ねた。何かあったんですか。
中部の小都市。彼がこの街にいるという話は聞いたことがない。先日、薬局に現れた彼は初診だったけれど、薬はずっと同じものを服用しているらしかった。
薬局に初めて訪れた時の、彼のどろりとした目を思い出す。
おそらく何かあったのだ。死ぬつもりだったにしろそうでなかったにしろ、三十日分の向精神薬を欲しがるほどの何かが。
「憧れ、ねえ」
彼が微かな笑い混じりに言い捨てた。あの時みたいな下手くそな笑みではなく、かさかさに乾いた、温度のない笑みだった。
「ぼくはきっと、君の思っているような人間じゃないよ」
胸がまたちくりと痛んだ。この人は、傷つくことに慣れきってしまったのだと思った。
だから、期待もさせないし、しようとしない。
それから特に会話が弾むこともなく、わたしたちは店を出た。彼に呼んでもらったタクシーに乗り込み、ドアを閉めた時、彼はもう興味なさそうに踵を返していた。家まではそれほどの距離もない。有人タクシーじゃなかったから、気まずい思いをしなくて済んだのは、せめてもの救いだった。
家に帰って間もなく。おばあちゃんと一緒にごはんを食べていると、警察がうちに尋ねてきた。何事だろう、と訝る気持ちで玄関先に出る。警官が二人立っていた。
「夜分に失礼いたします。菊池薫さんですね」
わたしはおずおずと頷く。法に触れることをした覚えはないが、無性に不安な気持ちだった。
「あなたは今日の夕方、駅前のオリエントに立ち寄りましたか?」
「ええ。ケーキを買おうと思って」
件のケーキはまだ冷蔵庫にしまってある。おばあちゃんが嬉しそうに「まあ!」と目を輝かせていたのが、わたしも嬉しかった。
「そのときは誰かと一緒でしたか?」
警官は淡々と尋ねる。
「知人の男性とばったり会って、そのまま店内に入ったんです。……あの、何か?」
強い風が吹き抜けて、髪を揺らした。横髪を耳にかける。夜気がひときわ肌寒かった。
躊躇うような間のあと、警官が口を開く。
先ほど、市村治さんが路上で倒れているのが発見されまして。
一瞬、心臓が止まってしまったような気がした。
――あの人だ、と思った。わたしの後ろをつけていたという不審な男。あれはきっと、わたしが目的だったんじゃなくて、
「何者かに頭部を殴打されているようでした。最後に会った人間はあなたでした。何かご存知ありませんか」
ああ、と嘆く声が口から洩れる。
崩れ落ちてしまいそうだった。
数日後、「オリエント」のケーキを持って彼の病室を訪れた。
迷惑かもしれない、と思ったが、いてもたってもいられなかった。わたしのせいで彼がひどい目に遭ったのではないかと思うと、――そうではないのだ、と理性でわかってはいても――ひたすら申し訳がなかった。命があったことだけが救いだった。
犯人は間もなく逮捕された。市村治に逆恨みを抱いている人だった。「あいつのせいでおれの妹はおかしくなった」と、絶えずわめいていたらしい。
彼は大きな総合病院に入院していた。精神科の受診歴があった病院と同じ場所だ。
面会の手続きをし、病室を教えてもらう。
病院の廊下がひどく長く感じた。リノリウムの床と薬のにおい。嗅ぎなれたにおいのはずなのに、気分はそわそわするばかりでちっとも落ち着かなかった。
ノックして入った病室には、先客がいた。
年配の女性。彼の母親だろうか。だけど、彼は出生時に母親を亡くしているはずだし――
ぐるぐると考えを巡らせているうちに、女の人が申し訳なさそうに席を立つ。
「それじゃあ、私はこれで帰るわね。叔父さんも明日には来れるって」
「……無理をしなくてもいいのに」
「あの人もあんたが心配なのよ。それじゃあね。たまにはゆっくり休んどきなさい」
わたしに軽く会釈をし、女の人は慌ただしく病室を出て行った。
病室の中、わたしと市村治だけが取り残される。四人部屋だと聞いていたけれど、他に患者は誰もいない。
彼はずっとわたしを見なかった。無視されているようで、ケーキの箱を持て余したまま、やすやすと見舞いになんか来るんじゃなかった、と後悔する。じわりと後ずさったわたしに、彼が冷やかに目を向ける。「座ったら?」
促されるがまま、簡素な丸椅子に腰を下ろした。
「何しに来たの」
「何って、お見舞い……というか」
語尾が消え入るようになりながら、彼が聞きたいのはそういうことじゃないんだろうな、と思う。
頭の包帯が痛ましかった。あの男は、ハンマーを持っていたと言ってはいなかったか。彼は平気そうな顔をしているけれど、傷はどのくらい痛むのだろう。
「あの……これ、ケーキなんですけど、よかったら食べてください。冷蔵庫に仕舞っておきますね」
話を濁すように言って、箱をそっと冷蔵庫に入れた。
何が好きかわからなかったから、ケーキ屋のショーウインドウの前で小一時間は悩んで、適当に見繕った。店の前にいたくらいだから、ケーキは嫌いではないんじゃないか。長いことショーウインドウを睨みつけるわたしを通行人が不審そうに見ていた。
見舞いに来たはいいけれど、何を話そうかは全く考えていなかったと思い至る。ただひたすら申し訳ないという一心でここまで来てしまった。
「言っておくけど、責任を感じているならお門違いだよ」
わたしの心を見透かしているみたいに、彼は言った。じわりと汗が浮いた。叱られているような気分になって、「すみません」という言葉が口をつく。
「そのすぐ謝る癖、やめたほうがいいと思うけど」
その台詞にも、思わず「すみません」と口走って、彼が呆れたような顔になる。自分でも馬鹿みたいで嫌になった。なんだってこんなに惨めな気分になっているんだろうと思うと、どこか悔しくもあった。
膝の上に手を置いたまま、顔があげられなかった。
「本当に謝らなきゃいけないのはぼくの方だ。……ごめんね。もう、ぼくに関わらない方がいい」
「……ご迷惑でしたか」
「いや。ただ、ぼくのことを憎んでいる人は想像以上にたくさんいるから」
彼は何でもないように告げる。
それは、間接的にでも、彼が人を殺してしまったからだろうか。
「市村さんのせいじゃ、ないと思います」
「ハル」
「え?」
「呼び方。苗字は好きじゃない」
唐突な申し出。何にも執着しないようだった彼が、そんなことを言うのが意外だった。
すみません、という言葉が口から出そうになって、慌てて呑み込んだ。
ストレッチャーが運ばれていく音。病室の外の物音は、わたしと彼の間の沈黙を余計にかきたてる。
「恨まれることそのものは、確かにぼくのせいじゃない。だけど、ぼくが選んだ。だから受け入れるしかない」
彼の口調はどこか頑なだ。今までもそうやって自分に言い聞かせてきたのだろう、と思った。
彼は自分を殺そうとした犯人の話をした。病院の中で、彼は犯人と一度すれ違ったらしい。警官に両脇を抱えられながら、犯人は何度も叫んでいた。お前のせいだ。お前のせいで、おれの妹はおかしくなった。
「その子は学校でいじめられていて、自死を図るために薬をたくさん飲んだ。強い抗鬱剤を七十錠。胃洗浄されて、病棟に入っていたけれど、目を離した隙に飛び降りた。それでも死ねなくて、精神病棟にいる。すぐそこの」
抗鬱剤を飲んで死のうとした女の子のニュースは、わたしも目にしたことがある。あれを機に、向精神薬の処方の仕方が厳格に定められたのだ。
「でも、そんなの――」
「ぼくの信者だってさ」
口を開きかけて、それから言葉が出なくなった。信者。誰がその言葉を彼に告げたのだろう。嘘みたいに現実味のない響きだ、と思った。
だけどわたしはそれを笑い飛ばせない。必死に何かにすがりついていなければ生きていけない感覚を、わたしは知っている。
何かを言おうとしたはずなのに、息が詰まって言葉にならなかった。
「ぼくは神様でもなんでもないのに」
彼はまた乾いた笑みを浮かべる。彼の笑みは少年の時よりずっと上手で、それがなおさら悲しかった。
わたしが一時期、心の中で彼にすがって生きていたことも、彼は見透かしてしまっているような気がした。軽蔑されるのが怖かった。「憧れだったんです」というわたしの言葉を、「憧れ、ねえ」と繰り返した彼は、一体どんな気持ちでそれを口にしたのか。
「……それでも、貴方のせいじゃないです。絶対に」
わたしは悔しさに似た感情を、ぎゅっと手のひらの中に握った。顔を伏せていたから、ありがとう、と呟いた彼がどんな顔をしていたのかは、わからなかった。
「また来てもいいですか」
いい、とも、だめ、とも彼は言わなかった。わたしは黙って立ち上がり、病室を出た。
悶々とした気持ちで病院の廊下を歩いた。
やりきれなかった。どんな言葉をかけたとしても、彼の前では軽薄になってしまう。同情をされることの息苦しさも、一般論だけの慰み文句も、あの人はきっと知り尽くしている。
聞きたいことも言いたいことも山ほどあったのに、口に出すことができなかった。
わたしの歩調は自然と早足になる。
病院の玄関から外に出ようとした時。待合室の椅子に座っていた女の人に、「ちょっといい?」と呼び止められた。
治の病室にいた女の人だ。きっちりとまとめた髪には、染色剤の抜けかけた白髪が混じっていた。少し怖がるような目をしながら、「さっき、治のお見舞いに来てくれてた子よね?」と笑いかけられる。
「仕事のお知り合いの方?」
「いえ……なんというか」
単なる薬剤師です、と言うのも少し違う気がしたが、友達というのはさらに遠い。知り合いです、というのが一番正しいのだろうけど。
口ごもっているわたしを見て、彼女は「まあ」と口元をほころばせる。何かあらぬ勘違いを生んだような気がしたが、それ以上のことを言われないので訂正しようがなかった。
「変なオバサンだと不気味に思うかもしれないんだけど、時間があったら、一緒にお茶でも飲まない? 迷惑じゃなかったらでいいんだけど」
朗らかな表情の奥に浮かぶ不安の色に、ここで断ったらひどく薄情な気がしてしまう。
大きな病院だったから、院内に喫茶店が併設されていた。更年期なのか、火照る顔をしきりに手で仰ぎながら、彼女は自分が市村治の叔母だと名乗る。
市村晶子。治の育ての母親のようなものだと、彼女は言った。
今はなつという中学生の娘もいるらしい。治の従妹にあたる子だ。「あの子、なかなかいいお兄ちゃんなのよ。ああ見えて」と、晶子はアイスティーを半分ほど一気に吸い込んだ。十六歳下の従妹とはどんなものだろう。生まれるはずだった十三歳下の弟の存在が、今更思い出すことも少なくなっていたのに、不意に脳裏によぎった。
院内は暖房が効いていた。彼女が頼んだアイスティーはグラスが汗をかいている。すべり落ちた雫がテーブルを濡らす。
「……あの子は感情を抑圧しがちだから、大変でしょう」
同情的ですらある声音。笑い皺のできる笑顔がとても素敵な人だ。母が生きていたらこのくらいの歳だっただろうか。そう思うと同時に、この人もきっと、たくさんの苦労を重ねてきた人なのだろう、と感じた。
「あの子は昔からそうだった。今だってそう。薬を飲んでいるし、カウンセリングも受けているんだけど……なかなか、完全にはよくならなくてね。心のほうが」
彼女の話では、オーバードースをしたことも何度もあったのだという。
薬物の過剰摂取。薬剤師という仕事をしていると、想像以上に身近なものに感じられる。
――あの日、貴方はどうして薬をたくさん買おうとしていたの? あの抗鬱剤をたくさん飲もうとしていた? あの女の子のニュースも耳に入っていた? おばあちゃんの薬局が有人販売だったから、アンドロイドよりも融通が利くと思ったから、うちに来たの?
それとも、誰かに止めてほしいと思っていた?
胸の中に湧き上がってくる疑問を、目の前の紅茶と一緒に飲み下す。
「そうだったんですね」
痛ましげにそう返すのが、精いっぱいだった。
彼が精神治療を始めてから、もう十年を過ぎている。文書を書き上げ、メディアに連日のように追われ、それからのことはもう言うまでもない。一時は重い鬱に苛まれ、部屋から出ることも起き上がることもできなかったようだ。
今ではだいぶ回復したというが、何かを機に――例えば今回の事件みたいなものを機に、ぶりかえす可能性も十分にある。
晶子は本当は独り暮らしもさせたくないようだった。「いい加減親も子離れしないとだめだろ」「お前は過保護すぎる」と夫に言われ、しぶしぶ引き下がっているのだという。
「危なっかしい子なのよ、本当」
どこか冗談めかした口調。誰かに吐き出したかったのに誰にも吐き出せなかったのだろう、相槌を挟んでいるかも気に留めていないように、晶子はずっと喋っていた。
あの子。もう三十代に届こうとしている治を、晶子はそう呼ぶ。
なぜ彼女にこんなに心を許されているのか、よくわからなかった。息子のように育ててきた甥のことを、選んだ人だと思われているからだろうか。
「気づいた? あの子ね、泣かないの」
不意にそう問いかけられ、ぴくりと顔を上げる。
そうなんですか、と他人事のような声が出た。
「泣けば少しは感情が発散されて楽になるはずだって、お医者様も言っているんだけどね。『ぼくには泣く資格はないから』って。何か、シャッターみたいなものを下ろしてしまっているみたいで」
そう言っているうちに、晶子のほうが涙ぐんでしまってきたようだ。「もう、歳をとると涙もろくなって嫌ね」と、自虐混じりにハンカチで目元を拭う。
別れ際、わたしたちはお互いに連絡先を交換し合った。治の連絡先よりも先に、その叔母の連絡先を知ることになるとは。わたしは何だか妙な気分だったが、晶子は「こんなに若いお友達ができるなんて」とはしゃいでいたから、それもいいのかな、と思う。
「治に……何かあったらよろしくしてくれる?」
最初に声をかけられた時と同じ、不安が覗く目だった。わたしはぎこちなく口角を上げて、大丈夫です、と言った。
ああ、わたしも、あの人を笑えないくらい笑顔が下手だ。
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