8、

 もう連絡は取らない方がいいのかもしれない。そう思って、何か胸に穴が空いたような心持のまま、毎日が過ぎた。調剤、受付。いつもと同じ。あの人と会うまでと、何一つ変わらない。それなのに、どうしてこんなに色味がないのだろう。不思議に思いながら仕事をしていた、そんな最中のことだった。

 少女がひとり、自殺した。

 出勤前の控室、いつものテレビモニター。癖でつけていたそれが、突然、少女の死を告げた。

 嫌な予感がする。「可哀そうにねえ」と、いつものようにおばあちゃんが呟く。

 少女は自殺未遂を繰り返していた。一度目は抗鬱剤の過剰摂取。二度目は病室からの飛び降り。収容されていた精神病棟で、少女は隠し持っていた剃刀で首の血管を切った。

 遺書は残していなかった。その代わり、彼女の端末の中には、ある少年の写真が何枚も入っていた。

 薄くモザイクが掛かっていたが、すぐにわかった。わたしも同じものを見たことがあったから。

 ――市村治。東京の英雄と呼ばれた、あの人。

 ニュースは名前を出すことはなかったが、聞く人が聞けばすぐにわかる言い方だった。

 

 彼にメッセージを送ったが、返事どころか読まれた形跡すら残っていなかった。

 昼休み。意味なんかないとわかっていても、控室で何度も端末を確認した。そわそわして落ち着かなかった。全てを背負い込もうとする彼のことだ。あれを目にしていたら、一人にしていては確実にやられる。見えない何かに彼が食われてしまう。

 わたしの焦りはおばあちゃんにも伝わっていたようだ。「あのね、おばあちゃん」と話しかけた時、おばあちゃんは少しも意外そうな顔をしなかった。

「急でごめん。午後から少しお暇を貰ってもいい?」

 いてもたってもいられなかった。おばあちゃんはにこにこと笑ったまま、深く頷いた。皺だらけの手をわたしの手の上に置いて、

「薫ちゃん。女の子にはな、頑張らなきゃいけん時があるんよ。行っておいで」

 言い聞かせるように、そう言った。


 飛び出すように薬局を出た。駅前にある彼のアパートまで、最初は歩いていたけれど、そのうちいてもたってもいられなくなって走り出した。すぐに息が切れ、苦しくなった。へろへろになりながら必死に走っていたら、靴のかかとが道の溝にひっかかって、転んだ。したたかに膝を打ち付けた上に、右足首を捻ったようだ。立ち上がった時に、ずきん、と鈍い痛みが走る。

 こんな時に何をやってるんだよわたしは。痛みに知らないふりをしながら歩く。

 彼のアパートに着くまでが随分と長く感じた。報道陣に囲まれていたらどうしよう、と思ったけれど、幸い周囲に人影はなかった。

 呼び鈴を押す。返事はない。

「治さん、わたしです! 薫です!」

 そう叫んでもう一度呼び鈴を押すが、反応はない。

 寝ているのだろうか。それとも外出中? いや、まさか。

 そっとドアノブに触れてみた。開いているはずがない。鍵がかかっているに決まってる。

 だが、ノブは回った。鍵はかかっていなかった。

 その手ごたえの軽さに、背中がひやり、とする。いくらなんでも無防備すぎやしないか。それとも、すでに何かが起こってしまった後だと言うのか。嫌な予感を呑み込んで、ゆっくりとドアを開けた。

 昼だというのにやけに薄暗かった。電灯がついている様子はない。

 廊下は物であふれかえっていた。衣服が畳まれた様子もなく無秩序に床に散らばっている。それから、ビニール袋。バスタオル。ティッシュペーパーの予備の箱。市販の睡眠導入剤の、茶色い瓶。

 雑然としていた。足の踏み場はかろうじてあるが、散らかり放題だ。

「治さん、あがりますね」

 少し大きな声で呼びかける。依然として反応はない。わたしは慎重に靴を脱いだ。その拍子に、先ほど捻った右足が、疼くように痛んだ。

 壁に手をつきながら、ゆっくりと進む。テレビの音なのか、奥の部屋から音が漏れ出ているのが聞こえる。

 間取りは1Kらしい。廊下のすぐ横にキッチンがあって、流し台に洗い物が溜まり放題になっていた。奥にひとつ扉があった。ドアノブに手をかけると、本当にすんなりと回る。

 まず目に飛び込んできたのは、壁に所狭しと貼られた写真だった。

 多いのは、空の写真。暁、夕焼け、夜空。明るさも雲の形も様々な表情の写真があった。次に多いのは、街並み、だろうか。廃墟のような崩れかかった鉄筋コンクリート。色褪せた標識。バケツの中で眠る猫。忘れ去られたような、人間の営みの跡。わたしはこの景色を知っている。

 ――東京だ。

 割れたアスファルト。月食。ゴミ捨て場でギターを抱える少女。

 まるで、あの時の記憶と景色を、忘れないようにしているみたいだ。

 はっと我に返り、わたしは部屋を見渡す。遮光カーテンは閉じられたまま。彼はその傍のベッドで、胎児のように丸くなって横たわっていた。薬物の過剰摂取の形跡がないかを、無意識に目で探してしまう。

 テレビは繰り返し、自殺した少女のニュースをやっていた。学校で撮った写真だというあどけない笑みが映った瞬間、やたらと音量の大きいテレビを消した。喧騒がなくなり、静寂だけがあった。

 治のもとに近づく。寝息も聞こえないほど静かに眠っている。毛布の中で丸まっている彼からは、まるで生気が伺えない。ひやり、として脈をとったが、どうやら心臓は動いているようだった。

「治さん、薫です」

 肩に手を置きながら、耳元で呼びかけたが、ぴくりとも動かない。目は固く閉ざされたまま。涙の跡もない。長く生えそろった睫毛は、外界の景色を閉ざすカーテンのようだ。

 頭に手を触れた。まっすぐな髪は、手櫛を通すとさらりと指から抜ける。

「かおる……?」

 びっくりするほど子供じみた声がした。

 彼は薄く目を開けていた。最初、薬局に来た時とよく似た、どろりとした胡乱な目だ。

「なんで……」

「ごめんなさい、なんというか、いてもたってもいられなくて、こんなの不法侵入ですよね、本当すみませんすぐ帰りますから」

 矢継ぎ早に言い訳を重ね、わたしは立ち上がろうとした。途端、右足に鋭い痛みが走った。ちらりと足元を見ると、足首がそれとわかるほど腫れている。

「怪我、してるの?」

 ああ、またあの顔だ。

 見ているこちらが泣きそうになるほど、不安げな表情。目元は歪むのに、その瞳から涙が落ちることはない。これは彼の強さなのか、それとも脆弱さなのか。

「大丈夫なんです、こんなの。わたしは大したことないんです」

 わたしはそう言って、彼の手を取った。指の間に自分の指を割り込ませ、ぎゅっと強く握った。

?」

 彼は力なく頷くこともない。その代わりに、ゆっくりとした瞬きを一つ。

「……駄目だね、ぼくは。わかってる。これはぼくが感じるべき痛みじゃない。――自己満足だ。君の言う通り、」

「違う」

 そう言って首を横に振る。

「違うんです。あんなこと言うつもりじゃなかった。本当です。ごめんなさい」

 顔を見ていられなくなって、うつむいた。

 縋るように握った彼の手が、解かれる。急な温度の喪失に、拒絶される感覚にも似た、ひやりとした恐怖が走る。

 顔の輪郭をなぞるように、彼の手が触れた。

「どうして君が泣くの」

「だって」

 だって、あなたがあまりにも泣かないから。

 眉を寄せながら笑う例の笑みが、わたしは余計に悲しくて、やるせなくて、胸が張り裂けそうで、

 わたしはどうしようもなくこの人が好きだ、と思った。


 外出しませんか、と提案をしたのは、それから数日後のことだった。

 四月中旬。すっきりと晴れて、柔らかい風がそよぐ良い日だった。

 少女の自殺があったあの日以来、わたしは隙を見て彼の部屋を訪ねていた。彼はいつもベッドの上で死んだように眠っているか、外界から耳を塞ぐみたいに音楽を聴いていた。

 ゴミを片付け、洗い物と洗濯をし、彼の身の回りをきれいにしようとするわたしのことを、彼は奇異なものを見るように見た。「どうしてそこまで献身的になれるの」と言って。

「一番辛いときに支えてもらいましたから」

「……そんなことした覚え、ないけど」

 彼は居心地悪そうに苦笑する。少しずつ回復してきてからは、彼は床にも大量に散らばっていた写真の整理をしたり、洗濯物を不慣れな手つきで畳んだりしていた。

 もうそろそろか、と思って切り出した提案を、治は渋った。

 情けない話だけれど、外に出れる心境じゃない。周りの人間の視線が――どんな些細な、取るに足らないものでも――耐えられる気がしない。被害妄想に苛まれるのはわかりきっている。そう言った。

 予想通りの反応だった。わたしだって、無理に外界の目に触れさせるほど鬼ではない。

 ただ、見てもらいたい景色があるのだ。彼と一緒に見たい景色があるのだ。

「無理にとは言いませんけど、――じゃあ、これならどうですか。貴方は目を瞑ったまま外に出る。目的地までわたしが手を引きます。わたしが目を開けてと言うまで、貴方は外界を見る必要もない。移動にはタクシーを使います」

 彼は少し面食らったような顔をしていた。わたしが必死に説き伏せようとすると、「そんなに必死に言うなら」と渋々頷いた。

 身支度を済ませ、狭い玄関で靴を履く。約束通り目を瞑ったまま、彼はわたしの手を握る。その力強さは、きっと不安の表れだ。

 弱視の人の介助を大学で習ったことがあったものの、不慣れなのはわたしも同じで、手さぐりでアパートの出口まで進んだ。彼は杖をつきながらだったし、わたしも捻挫がまだ治りきっていなかった。

 大変なのは出口までで、あとは車で移動するだけだ。タクシーはいくらもせずやってきた。わたしは彼を誘導し、車内に乗り込む。

 ぱたん、と静かにドアが閉まった。タッチパネルで目的地を入力しながら、画廊の帰りもこうやってタクシーに乗ったことを思い出す。その時も、彼がわたしの手を握りしめていたことも。

 車内で彼はほとんどしゃべらなかった。律儀に目を瞑ったままだったから、寝ていたのか起きていたのかはわからない。

 目的地までは、車で二時間ほど。隣の県だからさほど遠くないと思っていたのに、予想以上に時間がかかった。昼過ぎには出発していたが、着くころには陽がやや西日がちになっていた。

 カードで料金を払い、ゆっくりとタクシーを降りる。いつの間にかすっかり春らしくなった空気が、頬を撫でる。

 鳥居を抜け、ゆっくりと丘を登った。砂利道に足をとられないように、慎重に。

「いつまで登るの?」

 不安げに尋ねた彼に、もう少しです、と励ますように答える。参拝客はそれなりにいるようで、すれ違う人がちらちらとこちらを見ていた。

 やがてわたしが足を止め、つんのめるようにしながら、彼も遅れて止まった。


「目を開けていいですよ」


 わたしの手を放さないまま、彼の瞼がゆっくりと開く。

 わたしも彼と同じ視線の先を見つめた。横で、彼がはっと息を呑んだのが聞こえた。


 桜の花びらが、目の前にはらりと散った。

 千年以上も昔から守られていた、山桜の老樹。ご神木らしくずっしりとした幹には注連しめ縄が巻かれている。幹の先では、伸びてしなだれた枝という枝に、淡い色の花が満開に咲いていた。

 風が吹くたびに枝が揺らされ、花びらが吹雪のように散った。視界を覆いつくすほどの花弁。わたしはただただ圧倒されていた。

 ひらひらと舞う花弁は、いつまでも途切れることがない。首が痛くなるほど見上げているのに、いつまでも見ていたい、と思う。

 不意に、彼の手を握るわたしの手に、もう片方の手が重ねられた。縋るように。震えを抑えるように。

 どうしよう、と彼の声が聞こえた。

 わたしは彼を見上げる。

 いっぱいに見開かれた瞳から、大粒の雫がぼろぼろとあふれて、地面に落ちていた。透明な粒が輪郭を伝い、顎を伝い、地面に染みこんでいく。

「カメラ、忘れてきた。どうしよう」

 彼のあたたかい手のひらが、わたしの手をぎゅっと包み込んだ。それでも、片時も目をそらさず桜を仰ぎ見る彼の、その眼差しはまっすぐだった。

 忘れてはいけないものを、両目に焼き付けるように。





 散ればこそいとど桜はめでたけれうき世に何か久しかるべき

(作者未詳・伊勢物語八十二段)

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廃都 澄田ゆきこ @lakesnow

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