記録ファイル3

 アーカイブ四二:

 症状の進行に従い、彼女の体調と心理状況は日に日に悪化していく。

 相変わらず読書をしている時間は多かったが、ただ床に臥せている時間も増加傾向にある。悲観的な発言も日増しに多くなる。気がかりだったが、彼女ばかりに肩入れすることもできない。患者に対して個人的な感情を持つことは禁止されている。

 患部は膝にまで達しており、内臓機能もいくつか壊れ始めた。尿道カテーテルと人工透析を導入し、食事も流動食を中心としたものに変わる。どろどろとした食事と、何種類もの錠剤。食は進まないようで、しきりにため息をついていた。

 同日、夜遅くに彼女の夫が面会に訪れた。一五分ほどの短い面会であったが、夫婦の時間は濃いものであったようだ。深夜、点滴の交換のために彼女の部屋を訪れたが、彼女の顔は穏やかだった。

「春先に子供が生まれるんです」

 ベッドに横たわっていた彼女は、僕の姿に気が付くと、そう言って柔らかく微笑んだ。

「子供、ですか?」

 怪訝に思って問い返す。生まれるのが春先なら、すでに臨月を迎えているころだ。今の彼女は妊娠していないはずだし、とても子供が生める身体ではない。

「代理母出産なんです。ワシントンで」

「そうなんですか……」

 僕は微笑を返そうとする。

 静かな病室に、機械の無機質な音だけが広がっていく。

「春先に生まれるから、私の好きな作家の一人から字を借りて、『治』と書いて『ハル』という名前にしようと夫と決めてるんです。春って穏やかで暖かで、たくさんの命が始まる時で、すごく素敵でしょう?」

 春先。彼女の命がそこまで続いている保証は、どこにもない。

「親には随分と反対されました。私の病気がわかってからは、もしかしたら子供が発症するかもしれないと、なおさら強く諭されました。母親のいない子供は不幸だとも言われました。それでも生むのはお前のエゴだと。……だけど私はそれでもかまわなかった。諦めた時の方がよっぽど後悔していたと思います」

 彼女の声音はいつにも増して強い。だが、言葉と裏腹に、瞳はまだ迷っているようだった。

 検温を終えると、普段よりも熱が上がっていた。久しぶりの夫の訪問に、体は興奮状態にある反面、疲れてもいるのだろう。一度解熱剤を取りに行き、再び病室に戻ってくるころには、彼女の呼吸は荒いものへと変わっていた。

「もし男の子だったら、」

 点滴のチューブに解熱剤をつなげている最中。彼女は天井を見つめながら、細い声で言った。

「あなたみたいな優しい人に、なってほしいな……」

「……ありがとうございます」

 淡々と、誤魔化すように作業を続ける。

 病状の進行は無慈悲だ。彼女の死は日に日に迫っていく。

 そんな中、彼女がたった一人で孤独に死なないことだけが、唯一の救いに思えた。


 アーカイブ五五:

 久しぶりの休暇。一日だけ街に出た。病院は郊外なので、街とは電車で数十分の距離がある。車窓から見えるのは、ガラスのなくなったコンクリート群。落書きだらけの廃墟。線路沿いにレジャーシートを敷き横たわる、手足の黒く腐った老人。街を彩っていた桜並木は、いつもならつぼみをつけている頃だろうが、今では切り株が延々と並ぶばかりだ。

 しばらく見ないうちに、街はすっかり荒れ果てている。病院のモニター越しに見ていた景色が現実のものだったのだと思い知らされる。

 きょうだいたちと親に顔を見せ、それからアーケードで店を見て回った。八百屋と思しき屋根の下には、虫食いや不揃いなものばかりであったが、色とりどりの野菜や果物が置かれている。キューブばかりの食事だったから、惹かれるものを感じて、思わず歩み寄った。よく熟れている桃にたかっていた蠅が、その拍子に飛び去るのが見えた。

 軒を連ねている店は随分と数が減っている。残っているのは、移動する術も当てもなく、東京という場所で生きていくことを決めた者たちだけだった。

「すべては神の思し召しなのです」

 清算を終えた頃、遠くでメガホンの声が告げた。ビルの屋根やねの隙間から、白い衣装とマスク姿の人影が演説をしている様子が伺えた。

 熱狂する群衆の歓声と、怒号。石を投げられ、血が流れるが、白い人影は退く気配がない。

「我々は自然に逆らい、文明に依存しすぎるという大罪を犯した。病はいわば清めの炎なのです。その炎に身をゆだね、我々の罪が神によって赦された時、この地は救われるのです」

 呆然と見ていた僕の傍で、八百屋の店主が地面に唾を吐いた。

 僕はそのままアーケードを後にした。道端に捨てられている黒ずんだゴミ袋が、べたついた液体を垂れ流している。ゴミ袋から放たれる異臭は、樹化病の患者のにおいとよく似ていた。

「おにいさぁん、ちょっと時間ある?」

 ふとした瞬間、誰かに腕を掴まれる。見ると、年端もいかない小柄な少女だった。髪が長く、二月の半ばだというのに黒いワンピース一枚の少女は、ひどく寒々しく見えた。

「二万でいいよ」

 あどけない笑みだが、目の下の隈が濃い。その瞬間、服をまさぐられている感覚がして、僕は反射的に体を離した。僕の財布に手を伸ばそうとしていた少女は、舌打ちをして僕の前から走り去っていった。

 買ったものを取られなくてよかった。ビニール袋を強く握りしめ、僕は足早に街をあとにする。


 アーカイブ五六:

 今日の彼女は体調がいいようで、久しぶりに座って読書をしていた。表紙は例の『檸檬』ではなかったが、それも傍らに大切そうに置かれている。

『桜の森の満開の下』

 手にしている本にはそう書いてあった。彼女は本当に桜が好きなようだ。「もう一度桜が見たかった」という切実な声音も頷ける。

「すみません、検温の時間なので少しいいですか?」

 手元のビニール袋を椅子に置き、僕は彼女に呼びかける。彼女は本から顔を上げ、「ああ、もうそんな時間なんですね」とはにかんだ。

「それは……?」

 ビニール袋を目に留め、彼女は不思議そうに僕に尋ねた。

「これですか。先日休みをいただいて、少し街の方まで出ていたんです」

 何が入っているのかとでも言いたげに、彼女の目は好奇心に満ちている。

「ずっと入院も退屈でしょう。桜を持ってくるのは無理がありますが、せめてこのくらいならと思って」

 言って、僕は袋をまさぐる。鮮やかな黄色をしたそれを取り出すと、彼女の目がたちどころに輝くのがわかった。

 レモンはそれとわかるほど瑞々しい香りを放っている。露店でたまたま目に留まったものだが、想像以上の高値だった。だが、少しも惜しくはなかった。

 彼女は絶句していた。感嘆のため息を漏らしながら、頬が紅潮し、指先が微かに震えている。

「些細なプレゼントです。よければどうですか」

「嘘、そんな、ああ、ありがとうございます」

 驚いているらしい彼女は、思いつくままに言葉をこぼす。僕は何も言わずに微笑んだ。

 彼女はレモンに恐る恐る手を伸ばし、まるで壊れ物を扱うように、そっと両手で包む。鼻に当ててにおいをかいだり、そっと胸に抱き寄せたりしている様子は、赤子をとりあげた聖母のようにも見えた。とても優しい目だった。

「きれい……」

 思わず、といった様子で呟いた彼女の目に、その瞬間、透明で大粒の涙が浮かんだ。

 それがいくつも頬にこぼれ落ち、ぼたり、と布団が濡れて初めて、彼女は自分が泣いていることに気づいたようだ。「どうしよう、なんで」と言いながら、それでもあふれる涙は止まらなかった。

「本当に、何と言ったらいいか……。ありがとうございます」

 彼女は泣き濡れた顔のまま僕を仰いだ。

 病の痛みにも、孤独にも、死の不安にも涙を見せなかった彼女は、その時僕の前で初めて泣いていた。


 アーカイブ六四:

 深夜三時過ぎ、彼女の容体が急激に悪化した。

 樹化は足の付け根まで迫り、消化器や腎臓はほとんど機能していない。一時は心停止に至ったものの、電気ショックと心臓マッサージで処置を行い、どうにか彼女の命はつながった。

 昏々と眠り続けた彼女は、六時間後に再び目を覚ました。瞼を開けた彼女とちょうど目が合う。

 途端、彼女の表情が緩んだように見えた。

「ああ、……いらしてたん、ですね」

 ひゅうひゅうと喘ぐような呼吸。いつもの倍の鎮痛剤を投与しているが、苦しそうだ。

 うっすら汗ばんだ顔に髪がはりついている。呼吸は上がっているが、顔色は蒼白い。

「無理はしないでください。首だけで軽く頷いてくださいね。気分はどうですか?」

 彼女はわずかに首を横に振る。「何か欲しいものはありますか?」という質問にも、彼女は首を横に振った。

 処置に当たる僕の手を、彼女は驚くほどの力で引き寄せる。

「……あの、お願いが、あります」

 絞り出すような声音だった。

 僕はベッドの傍に膝をつき、目線を彼女に近づける。

「なんですか」

 僕はこわごわと口にした。

 沈黙をこんなに怖いと思ったことはなかった。

「機械、を……止めて、いただけませんか……」

 彼女の目じりに浮かぶ涙は生理的なものだろう。

 僕は息を呑む。延命装置を止めることは文字通りの死を意味する。延命の中止には家族の許可も必要だ。まして僕は医者でも何でもない、病院という組織の末端にすぎない。独断は許されない。

 僕はそう返すが、彼女の表情は揺らがない。

「あなたの、手で……。お願いします。私はもう、……」

 末尾が聞き取れないほど、細くしわがれた声だ。僕は泣きそうになりながら首を横に振る。彼女は依然として微笑んでいる。

 彼女が僕の手を握る体温は、その握力は、驚くほどに強い。

「……本当にいいんですか」

 彼女の健気な眼差しに、自分でも気づかないうちに口が動いていた。

 彼女はゆっくりと頷く。

「お子さん、もうすぐ生まれるんでしょう。会えなくなりますよ。本当に後悔しませんか」

 彼女は再びゆっくりと頷く。

 僕はこんなに動揺しているのに、彼女の表情は穏やかだ。

「生まれたばかりのあの子を、こんな病室へは、連れてこれない、でしょう?」

 とぎれとぎれの言葉。感染の危険性がある以上、新生児を病室に連れ込むことは、確かに難しい。彼女の腕に子供を抱かせてやることは、なおさら。

 僕は何も答えられない。機械の音は耳障りなほど大きく聞こえる。

「お願い、します」

 彼女の瞳はまっすぐだ。

 僕は唇をきつく結び、しばらくの間、思考を巡らせた。僕はどうするべきなのだろう。考えても答えは見えない。時間ばかりが過ぎていく。わからない。わからない。わからない。

 フリーズを起こしそうな僕に、彼女はダメ押しのようにもう一度、「お願いします」と絞り出した。かろうじて聞き取れるようなか細い声だった。

「……これが最後の確認です。本当にいいんですね」

 彼女はためらいなく頷く。彼女の細い首に汗が伝うのが見えた。

 握られた手から、彼女の小さな拍動が、確かに伝わってくる。人の手がこんなに温かいものだということを、僕は知らなかった。

 僕は彼女の手をそっと離し、静かにうなり続ける延命装置へと近づいた。

「ありがとう、ごめん、なさい」

 僕は黙って首を横に振る。彼女の顔を見ることはできなかった。

 ハル、と小さく、優しく呼びかける声。ごめんね、という声は彼女のものなのか、それとも僕の幻聴か。

 彼女の最期の言葉が止む。続く声がないことを確認して、張りつめた静寂の中、僕は延命装置の電源に手を伸ばす。


 機械の停止と共に、彼女の命はあっけないほど簡単に終わる。

 命のなくなった病室の中。立ち尽くす僕の傍らで、無機質な心停止音だけが、延々と響き渡っていた。

  

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