記録ファイル2
アーカイブ二三:
患者たちの多くは、命の尽きるぎりぎりまで絶望に満ちた目をしている。
いずれ死ぬのは誰しも同じだが、目前にはっきりと迫る死は、確実に精神を蝕んでいくらしい。現に、樹化病の患者の何割かは、自覚症状が出た段階で自死を選んでいた。「どうせ治らないのなら」「誰かに迷惑をかけながら死ぬくらいなら」と、最初の一人を皮切りに多くの者が自ら命を絶った。治療にありつくことすらできない、貧しい都市労働者たちに顕著な傾向ではあるが、決してこの病院でも例外ではない。
窓を埋め込んでも、自死を図れるものをできる限り取り除いても、モニタリングを行っても、何らかの方法で自死を選ぶ患者は依然として多かった。そこで導入されたのが僕たちだ。主な業務は患者たちの精神的及び身体的なケアだ。特異的な異臭と感染への危惧から、日常的な処置やサポートは、いつしか医師から僕たちに課せられた。
自死には至らないとしても、前向きに生きる気力を失ってしまう者がほとんどの中で、彼女はやはり珍しい患者だった。
日中、彼女は起き上がって本を読んでいることが多かった。僕が訪れる時はいつも、喋り相手がいなくて退屈しているといった様子で、読んでいる本の内容や家族の話をした。夢中になっている彼女の表情は、強いエネルギーを感じさせた。少しずつ樹化病が進行し、心配そうな表情をすることもあったが、僕が安心させようと言葉を返すと、彼女はいつも曖昧な笑みを浮かべた。
この日彼女が読んでいた本の表紙には、『檸檬』という題が書かれていた。昭和時代の有名な作品らしいが、文学には明るくないのでよくわからない。奥付を覗かせてもらうと、百年以上前の代物だった。彼女は古い小説や物語を好んで読む。特に紙媒体のものを。
「どんな作品なんですか?」
会話のきっかけを作るつもりで、そう声をかける。彼女は栞代わりにレシートをはさみ、本を静かに畳んだ。
「病気の主人公が、ふらりと入った雑貨屋に、爆弾と見立ててレモンを置くんです。ほんのそれだけなんですが、文章がすごく美しくて、私、この人の作品が大好きなんです。早くに病没して、数は少ないんですけど」
今日の彼女は顔色がよく、ひときわ饒舌だ。僕が「そうなんですか」と頷くと、彼女はかすかに笑ってから、言葉をついだ。
「この本の中には『桜の樹の下には』という作品もあるんです。桜の樹の下には死体が埋まっている……って、なんだか少し暗示的ですよね」
答えに詰まる。接ぎ木されたソメイヨシノは病を爆発的に伝播した。それに伴って樹化病の発生が始まってからというもの、長らく日本を象徴してきた桜というモチーフは、優美なものから一瞬にして不吉なものへと変わってしまった。
彼女は冗談めかした口調で続けた。
「千年さかのぼると、『世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし』という有名な歌があるんです。『もしも桜がなかったなら、春は心穏やかに過ごせただろうに』という意味なのですが、当時は桜の散る儚さを詠んだものだった。それなのに、今では違った意味に聞こえますよね。こういうの、面白いなあって……」
そこまで喋って、彼女は自分が夢中になって話していたことに気づいたらしい。彼女は恥ずかしげに声を落とし、「すみません、お仕事の途中なのに」と謝罪した。
「気にしないでください。気分はいいみたいですね」
笑いかけると、彼女は安心したような表情で頷いた。
鎮痛剤がよく効いているようだが、着実に症状は進行している。臓器機能と血圧は日々低下し、先日までつま先にとどまっていた彼女の壊死は、くるぶしに達しようとしていた。
アーカイブ二八:
キューブの無機質な味は、やはり楽しいものではない。端的な栄養摂取に特化している上に、生鮮食品よりはるかに安価であるから、キューブは一日に二度、食事用に病院から支給される。患者たちの食事に扱う食品を確保するには、今や膨大なコストがかかることを考えると、致し方ないのかもしれない。まず削られるのは僕らのような末端の職員のコストなのだろう。
キューブは賞味期限が長く、安価で生産も安定している。生鮮食品を買う余裕のない人々のある種の救済措置と言えるが、残飯やゴミが材料として再利用されているという噂もある。もはや文化的な食事とは言えないこれは、普及に伴って多くの貧困層を鬱病等の精神疾患へと導いた。
パッケージには蜂蜜味とある。ほんのりと甘い味がするが、お世辞にも美味しいとは言えない。ぱさぱさとした食感に口の中の水分が奪われる。
これでは食事というよりもはや作業だ。ただ活動を続けるための。
アーカイブ三六:
夕方の検温に行くと、彼女はテレビモニターを眺めていた。流れているのはいつも通りの暴動と、感染を恐れる人々による桜の伐採の様子だった。
病の本格的な流行はほとんど東京にとどまっていたが、最近ではまだ患者のいない他県にも暴動が広がりつつあり、桜は日々減少するばかりだった。
テレビはとある神社の神主を映す。岐阜県の山中にある、小さいけれど古い神社のようだ。樹齢千年を迎える山桜の大樹を敷地に抱えており、伐採派と保護派による議論が白熱しているらしい。
『この桜は千年もの間人々の生活を見守ってきた神様です。簡単に切るわけにはいきません』
宮司が苦々しげに告げる。安心と伝統を同じ秤にかけることに、ニュース全体の雰囲気は否定的だ。だが、山桜は厳密にはソメイヨシノ種とは異なるものだ。どちらに簡単に踏み切るのも短絡的に思えた。
「悲しいですね。……私は春も桜も大好きだから」
彼女がモニターを見ながら呟いた。
「そうなんですか」
言って、体温計を彼女に差し出す。脇に体温計を入れる彼女を尻目に、僕は点滴のパックを新しいものに取り換える。
「できることなら、もう一度桜が見たかった」
誰ともなく憂いて、彼女は深く溜息をついた。
机上に置かれた『檸檬』は、何度も読み返しているのだろう、かなり年季が入っている。今の彼女はそれを開く気にもなれないらしく、ただ茫然とモニターを眺めているばかりだった。
それにしても。彼女から体温計を受け取り、記録をしながらふと思う。
桜と共に流行った病で死を宣告されながら、桜が見たかったと嘆くとは、なんという皮肉だろうか。
アーカイブ四〇:
奇声と異音を聞き駆け込んだ二〇五号室は、惨憺たる有様だった。もはや立ちかがることも困難だったはずの老人は、ベッドから数歩離れた嵌め殺しの窓に、頭を突っ込んで死んでいた。割れたガラスの隙間に赤黒い血が流れ込んでいた。頭部は前頭葉付近が大きく損傷して、潰れた脳の破片や脳漿が飛び散っている。かなりの衝撃が与えられているようだ。
新しい血が流れては、老人の顎や指先から滴り落ちていた。
精神錯乱が激しい患者だった。タオルを呑み込んだり舌を噛み切ったりした患者は目にしたことがあるが、今回のようなものは初めてのケースだった。あれほど衰弱しきっていたのに、自力で壁に頭を打ち付けたのだろうか。額が潰れるほど強い力で。
ともかく、病室の掃除はかなりの大仕事になりそうだった。
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