廃都

澄田ゆきこ

第一章 流行り病

記録ファイル1


 世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし

(在原業平・伊勢物語八十二段)



 アーカイブ〇三:

 病は東京を汚染地へと変えた。

 風土病とも言える病の発生のせいなのか、それに伴う根も葉もない風評被害のせいなのか。人口の過密化が著しかった東京では、病は驚異的な速さで伝染していった。汚染されていく東京に、内地の人々はただ絶望し、外部の人々はひどく怯えた。人々が政府によって封じ込められ、その内部にじわじわと感染を広げていく様子は、いつしか耳にした蟲毒のようだった。

 それがいつからだったのか明確にはわからない。けれど確実に、かつて広島がヒロシマと呼ばれたように、東京はトーキョーへ変わってしまった。


 アーカイブ一九:

 この病院は、どこか世間から隔絶されている。

 僕の中にひっそりと眠っていたその感情は、「ここは本当に静かですね」という彼女の言葉で、まぎれもない確信に変わった。

「そうでしょうか」

 点滴の袋を取り換えながら、あくまで事務的に相槌を打つ。彼女はぼんやりと窓の外を見ていた。背中の中ほどまである長髪が、晩秋の弱々しい日差しに照らされていた。

 入院着を着た狭い肩。布団の上に重ねられた手は、あまりにも白く、細い。

「暴動も混乱も、東京のあちこちで起こっているはずなのに、ここにいると現実味がまるでない気がするんです。何も聞こえないから、全部他人事みたい」

 窓の向こうに目をやったまま、彼女は細々と答えた。

 草木で人工的に彩られた景色の中、かつて前庭の主役を務めていた桜の巨木は、世論に逆らえず切り倒された。その代わり、裾野に広がる町並みは、以前より少し見渡しやすくなっている。

「まあ……市街地からは、だいぶ離れてますからね」

 申し訳程度にそう言うと、ピッ、と体温計のアラームが鳴った。彼女から受け取った体温計は、平熱よりも少し高い程度の微熱を示していた。

 小高い丘の上に建つこの病院は、治療のための施設というよりは、患者の最期を看取るためのホスピスに近い。流行り病のせいで病院の需要が高騰している中、この病院に入院してくるのは、本格的な治療に至れなかった庶民ぎりぎりの富裕層が多かった。

 患者は皆こぎれいな身なりをしているが、最後は誰もが無残に死んでいく。彼女もそんな、入れ替わり立ち替わりやってくる患者のひとりだった。

 巷で蔓延っている疫病は、ほとんどが皮膚障害を伴うものだ。手足の末端やあるいは傷口などから、組織が崩壊し樹皮のように変化する。患者には感覚障害や精神症状がみられ、数ヶ月かけて症状が進行し、やがて死亡する。病状からこの病は俗に「樹化病」と呼ばれ、同時期に流行したソメイヨシノの病が原因ではないか、という説が根強い。

 特効薬はなく、開発された抑制剤も非常に高額で、早期の内に患部を切除しない限りは、誰もがなす術もなく死んだ。この病院はいわば、人間として最低限の尊厳を以って死を迎えたいという患者たちの最後の砦であり、そして流刑地だった。

「なんだか、寂しくなりませんか」

 彼女はぽつりと呟いた。

 平淡な、けれど悲しみを帯びたような声音。僕が返答に困っていると、「すみません、こんなこと言って」と彼女ははぐらかすように笑った。彼女は確か三十三歳のはずだが、その表情には子供らしいあどけなささえ伺えた。

「いいえ、大丈夫ですよ」

 抑鬱の傾向あり。手元の電子カルテに入力をしながら、彼女ににこりと笑いかける。「気分はどうですか」

「おかげさまで、昨日よりもだいぶよくなりました」

「それはよかった」

 模範的な返答をなぞり、僕はカルテの入力を進めた。

 昨日、この病院に搬入されたばかりの彼女は、一日中高熱にうなされながら嘔吐していた。それに比べれば、点滴の抗生物質の作用なのか、今日はだいぶ楽そうに見える。

 足先を確認すると、つま先から徐々に壊死が始まっていた。ではまた夕方きますね、と病室を去ろうとした時、彼女は「ありがとうございます。お疲れ様です」と恭しく頭を下げた。

 珍しい人だ。


 アーカイブ二一:

 ナースステーションのテレビモニターには、昨晩起こったという暴動の様子が繰り返し報道されていた。

 薙ぎ倒された桜の幹。舞い上がる土煙。シュプレヒコールを繰り返す群衆。割れる窓ガラスと、火炎瓶。映された人々のほとんどは貧しい身なりで、中には樹化の始まった重度の病人もいた。彼らは政府に対して医療的扶助を求めていたが、ほどなく警察部隊によって鎮圧された。

 いつまでも続く映像とアナウンサーのしかめ面を見ながら、僕は簡易携帯食を口に運んだ。キューブ状の高エネルギー食品で、あらゆる栄養素が網羅されているらしいが、ぼそぼそとした食感は文字通り味気ない。

 病の発端は昨年の春だったか。渇いた口内に水を流し込み、ぼんやりと思い起こす。もう一年近くが経とうとしているらしい。

 桜の幹の腐食、空洞化などが都内を中心に伝播的に観測され始め、春先にかけてじわじわと広がった。開花の季節を迎えると、それらの多くが色素異常を示し、黒色にまだらに濁った花弁が街中を覆った。

 樹化病の発現が始まったのも丁度その頃だ。皮膚が黒ずみ壊死していく奇病は、人々をたちまち混乱に陥れた。病については乾癬やハンセン病の変異、新種の細菌感染などが疑われ、国内外で多数の研究がおこなわれているものの、まだ実状はつかめていない。病の発端となった病原体の類さえ、まだ特定されていない。

 病の広がりに伴って人々の不安は加速していった。やがて抑制剤が開発されたが、とても庶民の手にできる代物ではなかった。先行きの見えない不安が治療を受けられない不満に変わると、日ごろのフラストレーションも相まって、市民は暴動を繰り返すようになった。参加者は、首都圏にごまんとあふれかえっている、医療保険料の支払えないような貧困層ばかりだ。様々な建物が焼かれ、壊され、唱和の中で木が切り倒されるのを、僕は今日と同じようにモニターから眺めていた。

 病の蔓延やそれによる人口移動、治安の悪化などにより、東京は少しずつ荒廃し、衰退している。息絶えた生きものが少しずつ体温を失っていくように、一見ゆっくりと、けれどひどく急速に。

 ただ、人里から離れてひっそりと建つこの病院では、彼女が先日口にしたように、荒廃すらどこか他人事のようだった。毎日運ばれては死んでいく患者への応対だけが、僕たちの共有する真実だ。

『二〇五号室に新規の患者が搬入されました。XX―〇二はケアに当たってください』

 耳元の無線機から通知が流れた。キューブの残りを白衣のポケットに入れ、足早に病室に向かう。

 二〇五号室の患者は、下半身の六割まで壊死の進んだ老人だった。他の病院にて実験的に治療を続けていたが、終身治療へと切り替えるためにここに転院してきたそうだ。

 密閉された個室に入ると、消毒の匂いに混じってひどい悪臭がした。

「なあおい、俺ぁ死ぬんだろう、なあ」

 老人は震え声で話しかけてくる。

 シーツをめくると、褥瘡状態になっているのか、ぐちゃぐちゃになった肉から半透明の汁が染みていた。壊死が進み硬化した脚は、体液に濡れて黒々としている。

 生命維持装置に頼っての延命。喋る元気はあるようだが、こう威勢のある人に限って、あまり長くはもたない。

「舐め腐りやがって、あいつらろくに治療もしないまま、俺が治らないとわかってからお払い箱にしやがった」

 体全体をお湯で濡らしたタオルで拭いてやり、シーツを新しいものに取り換える。

「落ち着いてください。大丈夫ですよ」

 小さく笑いかけると、老人はくわっと目を見開き、僕の襟に掴みかかった。

「看護師風情がどいつもこいつも無責任なことばっか言いやがる。お前よぉ、俺のこと馬鹿にしてるだろ? ざまあみろとか思ってんだろ、なあ? 目え見たらわかるんだよ!」

 顔に唾液が飛んだ。真っ赤な顔をした老人は、うまく言葉が出てこないようで、しきりに唇を開閉させていた。

 少し興奮しているだけだ。不安と絶望に駆られた患者が僕たちに八つ当たりをすることは、決して珍しいことではない。もうとっくに慣れている。

「さっさと出て行け!」

 老人はすぼめた肩を小さく震わせていた。目から流れる涙の透明さが、焼き付いて離れなかった。

「もう少しだけ我慢してくださいね。すみません」

 鎮静剤の量を増やした方がいいだろうか。点滴を取り換え、また来ますね、と言い残して、病室を出る。


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